略歴
1926 | 7月1日、ドイツ、ギュスタースローで教師の家庭に生まれる 12歳の頃から独学で作曲を始める |
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1942 | ブラウンシュヴァイク国立音楽学校に入学 | |
1944 | 兵役 | |
1945 | ビーレフェルト市立劇場の練習ピアニストとなる | |
1946 | ハイデルベルクの教会音楽学校で再び学ぶ ヴォルフガング・フォルトナーに作曲の指導を受ける ダルムシュタットの夏期講習に参加 |
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1948 | パリでルネ・レイポヴィッツに師事し、十二音技法を学ぶ この時代の代表作、「交響曲第1番」(47年)、「交響曲第2番」(49年)、カンタータ「アポロとヒュアキントス」(49年)などはシェーンベルクの影響を受けている「ピアノ&ロジャース」 設立 ポンピドー・センター(パリ)の設計競技に入選 |
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1950-53 | ヘッセン州立劇場の芸術監督兼指揮者に就任 | |
1953- | イタリア、イスキア島に居を移す カフカ原作によるオペラ「村の医者」でイタリア放送協会のイタリア賞受賞 ダルムシュタットから離れた作風のオペラ「鹿の王」(56年)、「交響曲第4番」(55年)を作曲 「若い恋人たちへのエレジー」(61年)で、より自由で新古典的作風へ |
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1960-68 | 西ベルリン芸術アカデミー会員 | |
1962-67 | ザルツブルク、モーツアルト学院で作曲を教える | |
1966 | 「若い恋人たちへのエレジー」日本初公演のため来日 | |
1969-70 | 60年代後半からマルクス主義に傾倒し、第2の転機を迎える キューバのハバナに滞在し教育と研究にあたる 「交響曲第6番」(69年)、チェ・ゲバラに捧げるオラトリオ「メデュース号の筏」(68年)、逃亡奴隷を主人公にした「エル・シマロン」(69~70年)、ガストン・サルバトーレの詩による「ナターシャ=ウンゲホイエル家への険しい道のり」(71年)など新左翼的傾向の強い作品を作曲 |
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1971 | テープを用いたライヴ・エレクトロニクス作品に関心を持ち、「ヴァイオリン協奏曲第2番」や「トリスタン」(73年)を作曲 | |
1975 | 英国ロイヤル音楽アカデミー名誉会員 | |
1980-91 | 国立ケルン音楽大学作曲科教授 | |
1987 | 英国ロイヤル音楽アカデミーの作曲科教授 | |
1988 | ミュンヘン・ビエンナーレを創設、芸術監督となる | |
1991 | ベルリン・フィルハーモニーのコンポーザー・イン・レジデンス | |
1992 | サントリーホールの国際作曲委嘱シリーズNo.16で「3つの宗教的コンチェルト」を作曲 | |
1998 | サントリーホール(東京)のサマーフェスティバルで、ヘンツェ作品集のコンサート | |
2000 | 高松宮殿下記念世界文化賞・音楽部門受賞 | |
2012 | 10月27日、ドイツ東部ドレスデンにて逝去 | |
主な作品 | 1951 「ラビリント」 (バレエ) 1952 「孤独通り」 (オペラ) 1956-57 「オンディーヌ」、「マラトン」 (バレエ) 1960 「ホンブルクの皇子」 (オペラ) 1965 「バッカスの巫女たち」、「若い貴族」 (オペラ) 1967 「自由の讃歌」 (弦楽合奏曲)、「テレマンニアーナ」 1971 「刑務所の歌」 (カンタータ) 1976 「われわれは川に来た」 (オペラ) 1977 「三つのティエントス」 (室内楽曲) 1978-86 「オルフェウス」 (バレエ) 1980 「ポッリチーノ」 (児童オペラ) 1983 「イギリスの猫」 (オペラ) 1983-84 「交響曲第7番」 1990-91 「レクイエム」 1992-93 「交響曲第8番」 1995-97 「交響曲第9番」 1998-2000 「交響曲第10番」 |