トップ 受賞者一覧 ザオ・ウーキー

第6回

1994年

絵画部門

Zao Wou-ki

ザオ・ウーキー

 中国水墨画の伝統に根ざした、東洋と西洋の美意識が融合した独自の“叙情的抽象”の世界を創り出す。風景、自然をテーマに空間の奥行きを感じさせる抽象絵画はヨーロッパの抽象画に新しい可能性を開いた。
1921年、宗王朝にまでさかのぼる北京の名門の家系に生まれる。14歳で杭州の国立美術学校に入学。48年、アンフォルメル(非定形絵画)が胎動し始めたパリへ移住、グランド・ショミエールのアトリエに通う。翌年には早くも個展をひらき“中国のボナール”と評され大成功を収める。フランス各地を始め、ヨーロッパをよく旅し、古典から現代美術に至るまで、その美術を貪欲に吸収していった。彼は「パリの影響が私の技術形成すべてに及んでいることを否定できなくとも、私の個性が確立されるにしたがって、次第に中国を再発見した」と言っている。
64年、ウーキーの最大の支持者アンドレ・マルローの助力でフランス国籍を取得。83年には北京で個展を開く。日本にもしばしば訪れており、大作「アンドレ・マルローに捧ぐ」(1976)が箱根・彫刻の森美術館に収蔵されている。

略歴

  ザオ・ウーキーの油彩の抽象画には、どこか自然の気配がある。東洋の水墨画にも通ずる幽玄の趣が漂う。画家自身も、「中国を離れてパリに定住したのが27歳のとき。中国絵画の伝統は、すでに身についていた。東洋と西洋の美意識の融合は、私のなかで極めて自然に生まれたと思う」と語っている。
1921年、宋代にまでさかのぼる北京の古い家系に生まれた。父は銀行家だった。14歳で杭州美術学校に入り、中国の絵画や書の伝統的技法を修めると同時に、遠近法や油彩の技法など、西洋の美術教育を受ける。卒業後、母校の教師となった。画集を通じて印象派はもちろん、セザンヌ、ピカソ、マティスの作品にも親しみ、1941年に開いた最初の個展の出品作には、彼らの影響がうかがえた。1947年に2度目の個展を開くが、彼はパリに行く必要があると感じており、父親もそれに同意した。
1948年に妻と子供を連れてフランスに渡る。グランド・ショミエールで学ぶかたわらルーヴル美術館に日参する。早くも1949年にパリで初の個展を開催して成功を収め、詩人アンリ・ミショーや、ピカソ、ミロ、スーラージュ、ジョルジュ・マチューらと親交を結んだ。また、50年にはスイスに旅行してパウル・クレーと会い、クレーの絵画に東洋芸術の影響を感じ取り傾倒した。このころの風景画はクレーを連想させる筆致で描かれている。また「東洋と西洋を結びつける道」を照らしてくれたセザンヌについては、「ピカソは、ピカソのように描くことを私に教えた。しかしセザンヌは、私に中国の自然を観ることを教えた。私はモネ、ルノアール、モディリアニ、マティスを賞賛する。しかし、私が中国の絵画を再発見するのを助けてくれるのは、セザンヌである」と記している。
1950年代、パリ画壇にはアンフォルメル(非定形絵画)運動が台頭、ウーキー青年も身を投ずることになる。画風はしだいに抽象化を深め、初期には残っていたものの形は消えていき、1950年代後半には純粋抽象画に到達した。中国人としての生来の自然観照と空間把握とを抽象表現主義的な描法に適合させて、大画面のうちに両者は融合する。その心象的抽象画は、15-16世紀のドイツの画家、アルトドルファーからターナーを経て、クリフォード・スティルらに引き継がれた終末論的風景画の相貌をもつ。また屏風構造のカンヴァスが、これらの要素を大きなスケールで表現することを可能にした。
まもなくザオ・ウーキーは、パリばかりでなくアメリカ、スイス、ロンドンでも定期的に個展を開くようになる。ニューヨークに滞在したときにはニューヨーク派の画家たちから暖かい歓迎を受け、とくにイヴ・クライン、フィリップ・ガストン、ピーター・ブルックスらと親交を深めた。また建築家イオ・ミン・ペイとも親交を結び、ペイの設計したビルのための仕事をいくつかしている。1957年にはスーラージュとともにアメリカの美術館めぐりをした後、ハワイを経て初来日している。
ザオ・ウーキーの芸術をいち早く評価したのは、作家、美術評論家としても著名な当時のフランスの文化相、故アンドレ・マルローだった。その応援で1964年、フランス国籍も取得した。1972年には24年ぶりで故国の土を踏んだ。
1981年にはパリのグラン・パレでフランスの美術館では初めての個展を開催、日本、香港にも巡回した。1983年には北京で個展を開いた。日本にはしばしば訪れており、恩人へのオマージュであるトリプティーク(3幅対)の大作『アンドレ・マルローに捧ぐ』は箱根・彫刻の森美術館に収蔵されている。
叙情性豊かなザオ・ウーキーの大画面は、苦闘の末に生み出されたという気配はまったくなく、常にみずみずしい創造性にあふれ、新生の息吹を伝えている。


松村寿雄

略歴 年表

1921
2月13日、中国、北京で古い家柄に生まれる
1935-41
杭州の国立美術学校で学ぶ
1948
パリに移住、グランド・ショミエール・アカデミーに通う
1949
パリ、クルーズ画廊で初個展
1950
ピエール・ルーブ画廊と契約。アンリ・ミショー、ピカソ、ミロ、スーラージュ、マチューらと知り合う。初めて制作したリトグラフ8枚にアンリ・ミショーが8篇の詩をつけ、ラユン画廊で展示
1951
初めてスイスに旅し、パウル・クレーの作品を見る
1957
初来日、3週間で東京、京都、奈良を見て回る
1960
アンドレ・マルローの著書のために挿画のリトグラフを制作、その知遇を得る。またランボー、サン・ジョン・ペルス、ルネ・シャール、ジャン・ロード、ロジェ・カイヨワ等の詩にイラストを描く
1964
アンドレ・マルローの助力により、フランス国籍を取る
1971
墨絵を制作する
1972
2度目の妻メイが他界、24年振りに故国の土を踏む
1982
2度にわたり中国を訪れ、ザオ・ウーキーの水墨画2点を納めた友人I.M.ペイ設計のホテル落成式に出席。巡回展の第2会場となった東京でのオープニングのため来日
1983
北京、国立美術館で個展
1993
レジョン・ドヌール・コマンドゥール章受章
1994
高松宮殿下記念世界文化賞・絵画部門受賞
2000
パリ、グラン・パレにおける「中国・皇帝たちの栄光」展に参加
2001
スペイン、ヴァレンシアのフリオ・ゴンサレス・センターとベルギー、
ブリュッセルのイクセル美術館で回顧展
2013
4月9日、スイス・ニヨンの自宅にて逝去

個展他

1941
初個展(重慶)
1949
パリで最初の個展(ギャラリー・クルーズ)
1955
リトグラフ、版画の回顧展(シンシナティ美術館)
1961
個展(東京画廊)
1968
メトロポリタン美術館「フランス絵画1900-67」展に出品(ニューヨーク)
1969
東京国立近代美術館「現代世界美術展-東と西の対話」に出品
1975-76
「アンドレ・マルローに捧ぐ」(フジテレビ・ギャラリー、東京)
1976
パリ国立近代美術館収蔵品展「衝撃Ⅲ」
1981
回顧展(グラン・パレ、パリ)、この後日本の5つの美術館及び香港、シンガポールの国立近代美術館で巡回展
1983
個展(国立美術館、北京)
1987
個展(フジテレビ・ギャラリー、東京)

受賞・名誉

1974
レジヨン・ドヌール・シュバリエ勲章
1985
杭州美術学校名誉教授

主な作品

1954
「風」(ポンピドー・センター国立近代美術館、パリ)
1955
「ローマの遺跡」,「嵐の前」(テート・ギャラリー、ロンドン)
1956
「ある友のための石碑」(オットー・スタンブル・ギャラリー、ミュンヘン)
1957
「そして、大地は形をもたなかった」「北風(ミストラル)」(ソロモン・R. グッゲンハイム美術館、ニューヨーク)
1962
「絵画-21.3.36」(ギャラリー・ド・フランス)
1968
「6.1.1968」(パリ市近代美術館)
1976
「アンドレ・マルローに捧ぐ-1.4.76」(3点組み)(箱根彫刻の森美術館)
  • 大聖堂とその周辺

  • 見捨てられた小さな庭

  • チュー・ユンへのオマージュ

  • 絵画 1998年1月10日

  • アトリエにて

  • ©The Sankei Shimbun

大聖堂とその周辺
(1952-53)89 x 116 cm. ©photo:J Hyde/Zao Wou-ki

見捨てられた小さな庭
(1954)
33 x 41 cm.©Zao Wou-ki

チュー・ユンへのオマージュ
(1955)
195 x 130 cm. ©Jean-Lois Losi

絵画 1998年1月10日
(1998)114 x 146 cm. ©Zao Wou-ki

アトリエにて
©The Sankei Shimbun

©The Sankei Shimbun