トップ 受賞者一覧 中村 歌右衛門

第7回

1995年

演劇・映像部門

Nakamura Utaemon

中村 歌右衛門

 数次の海外公演の名演を通じて、異文化の人たちに衝撃的な感動を与え、世界の演劇界や芸術界に広く影響を与えた歌舞伎女形芸の最高峰である。
1917年、名優、五代目中村歌右衛門の二男として東京に生まれる。その薫陶を受け、若き女形として、きら星のごとき名優と同じ舞台を踏んだ経験が、その後の努力と研さんとともに大輪の花を咲かせる原動力になった。女形の難役とされる“三姫”- 「鎌倉三代記」の時姫、「本朝廿四孝」の八重垣姫、「金閣寺」の雪姫。これを演じきるのは至難の業と言われるが、歌右衛門は10代で“三姫”を演じきった。1960年の訪米歌舞伎をはじめとして、海外公演で最も多く演じたのは舞踏劇「隅田川」。1990年のパリのシャンゼリゼ劇場は、「隅田川」終了後スタンディング・オベーションの嵐が吹き荒れた。「外国に出てこそ歌舞伎がいかに大事かということがわかります」と語っている。
64年に史上最年少の芸術院会員、68年に人間国宝、79年に文化勲章受章など受賞多数。パリ市からのベルメイユ章など海外の受賞も多い。晩年は闘病生活を送りながらも、94年には復活、95年には当たり役「建礼門院」に主演して観客をうならせたが、2001年死去。

略歴

  世界で唯一の女形芸の最高峰、中村歌右衛門は10数回におよぶ海外公演で、異文化の人たちに衝撃的な感動を与えてきた。歌舞伎という日本だけしかない固有の伝統文化に世界文化賞の光が当てられた意味は大きい。
1960年の訪米歌舞伎を皮切りに、海外公演で歌右衛門が最も多く演じたのが舞踊劇の『隅田川』。子を失った母親が狂女となって漂泊し、再会したと思った子は亡霊とわかって、深い悲しみの底へと沈んでいく……。ストーリーが外国人に理解されやすいという側面もあるが、歌右衛門ならではの名演によるところが大きかった。ほとばしる内面の修羅が抑制された感情の中にゆらめき、唇の微細な動きが、やがて悲劇を通り越した微笑みへと変わる悲痛な表現が万人の心を揺さぶらずにはおかない。
1990年のパリのシャンゼリゼ劇場は『隅田川』終演後、スタンディング・オベーションの嵐が吹き荒れた。観客は狂女が70歳すぎの男性であることも忘れ、子別れの悲しみという真実に打ちのめされた。これこそが歌舞伎の女形の世界的な普遍性であり、日本固有の芸術でありながら世界文化賞を受けるにふさわしいことを納得させる。
こうした海外公演を通じて、歌右衛門は歌舞伎が世界に誇れる演劇であることを認識する。「日本だけでやっていると身にしみないのです。外国に出てこそ歌舞伎がいかに大事かということがわかります」と語っている。
歌右衛門は1917年、名優の五代目中村歌右衛門の二男として東京に生まれた。5歳で初舞台を踏んだ。幼時から稽古熱心で、振り袖を着て舞踊の稽古に通ったという伝説もある。中村福助、中村芝翫を経て1951年4、5月の東京、歌舞伎座で、舞踊の大曲『娘道成寺』で六代目中村歌右衛門を襲名した。その間、至難の役といわれる「三姫」の八重垣姫、雪姫、時姫を10代で演じ切り、1953年の天覧歌舞伎では『娘道成寺』を踊って、1887年の父に続く父子二代の栄誉にも浴した。
父の五代目は大まかな教え方だったが、芝居と舞踊を問わず、役の性根についてやかましかったという。性根はその役、そのなかの人物になる根本のもの。いかなる人物であるかという見極めである。役の性根さえつかめば、手の出し方や舞台のどこにいればいいかという居所まで決まってくる。稽古場での歌右衛門は後輩の俳優に対して、「肚はどうした」と詰問する。その肚こそ性根で、若い役者がビデオなどを見て、型などの格好ですませてしまう風潮に苦言を呈する。「もうね、性根などという辛気くさいことやらなくたって、CMでお金がとれるんだから」
こうした苦言を吐くのも、歌右衛門が女形一筋に歩み、自身を厳しく律してきた生き方そのものが芸に反映されて観客を魅了し、感動を与え続けてきたからといえる。たとえば、世界文化賞を受賞した直後の1995年11月、歌舞伎座で演じた北條秀司作『建礼門院』。平家滅亡に力を貸した後白河法皇と清盛の娘、建礼門院との葛藤を詩情豊かに描いている。
ふたりの激しいセリフのやりとりの後、シーンと静謐な時間が流れる。突然、門院がつぶやく。「空のあなたから、すべてを許せとのたまう声が……」。歌右衛門の門院はうっすらと笑みを浮かべ、まさしく仏の声を聞いた人の顔はこうだろうと思わせる説得力にあふれていた。歌右衛門が観客を納得させてしまうのは、役者としてのキャリアはもちろん、いかに人生を生きてきたかという人生の蓄積がそうさせるのだ。
『先代萩』の政岡、『籠釣瓶』の八ツ橋、『妹背山』の定高、『助六』の揚巻、『廿四孝』の八重垣姫……と当たり役を挙げたらきりがない。どの役にも歌右衛門ならではの芸格が輝いている。かつて、こう語っていた。「女形は入りよくってだんだん難しくなってまいります。ましてや女形だけでまいりますと、回を重ねるたびに難しくなり、いまだに手も足も出なくなるように感じます。歌舞伎も女形も奥が深い」。歌右衛門は1996年以来、病気療養中のため舞台に立っていない。一刻も早い回復を願わずにはいられない。



小田孝治
 
2001年3月31日逝去

略歴 年表

1917
1月20日、東京に生まれる
1922
三代目中村児太郎を名乗り初舞台を踏む
1933
若くして没した兄五代目福助の名を継ぎ、六代目中村福助を襲名
1941
六代目中村芝翫を襲名
1948
芸術祭文部大臣賞
1951
復興した歌舞伎座で六代目中村歌右衛門を襲名
1954
歌舞伎研究のため“莟会”を主宰し、自主公演を行なう
1957
I.T.I.(国際演劇協会)アカデミー賞
1960
日米修好通称百年祭記念・訪米歌舞伎公演に参加(ニューヨーク、
ロサンゼルス、サンフランシスコ)
1961
訪ソ歌舞伎公演に参加(モスクワ、レニングラード)
1962
日本芸術院賞(1961年度、最年少の受賞者となる)
1964
明治百年記念・大歌舞伎ハワイ公演に参加。芸術院会員となる
1968
重要無形文化財《歌舞伎女形》保持者個人指定(いわゆる人間国宝)
1971
日本俳優協会会長に就任
1972
訪欧歌舞伎公演に参加(ロンドン、ミュンヘン)
伝統歌舞伎保存協会会長に就任。文化功労賞
1975
日本芸能実演家団体協議会会長に就任
1979
文化勲章受章
1988
オーストラリア建国200年記念・訪豪歌舞伎公演に参加、芸術監督を兼務東京国際演劇祭組織委員に就任
1990
訪欧歌舞伎公演に参加、芸術監督を兼務(パリ、フランクフルト)
パリ市ベルメイユ章
1991
日本芸術文化振興会(国立劇場)評議員に就任
1995
高松宮殿下記念世界文化賞、演劇・映像部門受賞
1996
最後の舞台(4月、歌舞伎座、8月、国立劇場)
2001
3月31日、逝去

当り役

 
「籠釣瓶花街酔醒」の八ツ橋
「伽羅先代萩」の政岡
「本朝廿四孝」の八重垣姫
「京鹿子娘道成寺」の花子
「妹背山婦女庭訓」のお三輪、定高
「隅田川」の班女の前
「忠臣蔵九段目」の戸無瀬
  • 「金閣寺」の雪姫

  • ぬいぐるみのコレクションに囲まれた歌右衛門

  • 「隅田川」班女の前

  • 「壇浦兜軍記」の阿古屋

  • 「鏡山」の尾上

  • 自宅にて(1995)

「金閣寺」の雪姫
全写真提供:中村歌右衛門

ぬいぐるみのコレクションに囲まれた歌右衛門

「隅田川」班女の前

「壇浦兜軍記」の阿古屋

「鏡山」の尾上

自宅にて(1995)
©The Sankei Shimbun