第4回
1992年
絵画部門
Pierre Soulages
ピエール・スーラージュ
大きな刷毛で厚く塗られた量感溢れる黒の画面にナイフでつくられた溝が細かく走り、縞目模様をなしている。その凹凸のある画面に光りがたゆたい、微妙な反映を見せていく。その黒い画面は「動く黒」とも「窓のない壁」とも評される。「黒」を探求する画家。
1919年、フランス中西部のアヴェイロン県ロドスに生まれる。古代ケルトの巨石文化の遺跡やロマネスク建築の寺院に囲まれて育つ。1938-39年、パリでピカソの展覧会を見て深い感銘を受け、41年から1年間、モンペリエの美術学校に通う。ナチスの占領下時代にモンドリアンやカンディンスキーの複製画を見てはじめて抽象絵画の存在を知る。第二次大戦後のパリを中心に若き俊英たちが輩出したが、スーラージュもその一人であった。初期の黄土色や褐色の地色に灰色や黒のダイナミックな線で構成された作品は現代につながるものである。
70年代末からは「黒」のみが躍動する作品が中心になる。「黒が発する光、その光こそ求め続けている唯一のもの」と語る。作品には完成年月日とサイズのみを記しタイトルとしている。58年以来、何度も日本を訪れている。
略歴
ピエール・スーラージュの黒々とした大画面に向き合うと、その物質感に圧倒される。レリーフのような立体感がある。大きな刷毛で厚く塗られた画面のたっぷりとした量感。ナイフでつけられた溝が細かく走り、縞目模様を成して、その凹凸のある面に光がたゆたい、微妙な反映をみせていく。周囲の空間を取り込んで立ちはだかる黒い画面は、「動く黒」あるいは「窓のない壁」などと評される。スーラージュは自作について、「これらの画面には一見、ただ黒い広がりのみがあるようだが、実は、質感や艶、緊張感や静けさの微妙な差があるわけで、光を受け入れ反射しながら、灰色がかった黒、深みのある黒を生んでいく」と、明快に解説する。まだ額縁をつけていないカンヴァスのままの状態の絵画を横から見ると、黒一色の画面の下にブルーなどが塗られているのがわかる。あの黒の深みのゆえんだろう。崇高な、墨のように五彩を含んだ黒である。
1919年、フランス中南部のアヴェイロン県ロデスの生まれ。ロデスにはアルティザンが大勢いて、絵画修復の職人などから得たものは絶大だったという。古代ケルトの巨石文化やロマネスク建築の教会に囲まれて育ち、これが後の制作活動に大きな影響を与えた。漆黒の大画面が放射する威圧感は、郷里のケルト文化の遺跡、メンヒルをさえ想起させる。その光の効果への固執も含めて、限りなくレリーフに近い絵画といえるだろう。
1938年から39年、パリでピカソの展覧会を見て深い感銘を受けた。41年から1年間、モンペリエの美術学校に通ったほかは独学だった。ナチス占領下の43年、モンドリアンやカンディンスキーの複製画を通して、初めて抽象絵画に接した。占領下ではドイツでの労働を拒否して4年間にわたって逃避行を続けた。
第二次大戦後、マティスもピカソもブラックも健在だった。しかし、戦後の若い世代を触発したのはカンディンスキー、モンドリアン、クレー、続くジャン・フォートリエ、ハンス・ハルトゥング、ヴォルス、さらにアメリカで興った抽象表現主義の作家たちの制作と理論だった。彼らの影響のもと、戦後のパリを中心に若き俊英たちが輩出したが、スーラージュもそのひとりであった。
本格的に制作をはじめたのは1946年にパリに定住してからで、最初から抽象画を試みた。白地、黄土色や褐色の背景に、黒や灰色の線で構成された画面には、力強く、ほとんど建築的といっていい筆遣いがみられ、光対闇のドラマをはらんでいる。後の彼の作風の特徴となる要素はすべて備えており、この時期すでに非表現主義的な作風が確立していたといえるだろう。いくつかの展覧会への出品を拒否され、47年、審査のないサロン・デ・シュル・アンデパンダン展に初出品して注目された。
1949年にパリで初めての個展を開く。そして1950年代を通じて声価を高めていったが、パリよりも先にニューヨークやシカゴ、ミュンヘンやロンドンで迎え入れられたのは興味深い。とくにニューヨークで高く評価されたのは、スーラージュのスタイルが、当時アメリカを席巻していたアクション・ペインティングに相通じるものがあったからだろう。1960年代、彼は単にフランス的とかヨーロッパ的とかいう形容を超えた、きわめてインターナショナルなエスプリをもって、その芸術を展開させていく。すでに60年代前半から回顧展がヨーロッパやアメリカの諸都市を巡回していたが、パリ国立近代美術館で開催されたのは、やっと1967年になってからだった。
1979年、パリのポンピドゥー・センターで開かれた個展でスーラージュは過去10年間の成果を披露した。それまでの作品は黒が主調とはいえ、ベージュや褐色の地に太い筆を使った雄渾な線状のフォルムが浮かんでいたものだが、この個展では黒一色に塗り潰された画面が並んだ。線状の微妙なリズムがあるだけで、フォルムらしきものは影をひそめた。この時点でスーラージュの黒の探求は、ある頂点を極めたといっていい。光が全面的に画面を支配するようになるのも、この時以来だ。そして光の画面は次第に肥大化して、ポリプティーク(屏風のように3枚以上のカンヴァスを張り合わせたもの)を多用するようになった。
スーラージュは「私の絵画は意味ではなく、ものなのだ」と繰り返し述べている。フォルムと色彩、絵肌と質感との関係が重要なのであり、それらが織り成す画面は光を受けて、さまざまに変貌する。そして豊かで緊密な空間を構築していく。絵画の純粋性を守り、再現性を排除するため、作品には完成年月日とサイズのみを記し、タイトルはつけない。その頑固なまでの哲学によって、さまざまな芸術運動にも影響されることなく自らの道を歩み続けてきた。
1958年の初来日以来、何回も日本を訪れていて、スーラージュ作品と墨象との関連性がよく論議される。彼が禅や日本庭園に深い関心を抱いていることは確かだが、この画家にとって意味のわからない日本のカリグラフィーからは、特別の影響を受けていないようである。
松村寿雄
略歴 年表
ポンピドー・センター国立近代美術館回顧展
「スーラージュ・黒の光」
主な作品
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©The Sankei Shimbun
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©The Sankei Shimbun
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パリ、カルチェラタンにて
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Peinture