トップ 受賞者一覧 リチャード・セラ

第6回

1994年

彫刻部門

Richard Serra

リチャード・セラ

 セラの作品は従来の彫刻ではなく、スタジオから抜け出し、公共の場に設置されてこそ真価を発揮する。荒々しい鉄の肌は美的な彫刻とは程遠いものであるが、それこそがセラ彫刻の魅力であり、その圧倒的なパワーと迫力は広く知られている。
1938年、アメリカのサンフランシスコに生まれる。カルフォルニア大学バークレイ校に学び、イェール大学で絵画を専攻。学生時代は製鋼所や工事現場でアルバイトに励んだ。セラのもっとも有名な作品は1981年、ニューヨークのマンハッタンの連邦ビル前広場に設置された巨大な鉄板をやや弓形にそらせた「傾いた弧」であろう。しかし、危険、景観の邪魔になるとの抗議が起こり、結局作品は8年後に取り払われた。ダイナミックに変貌していた空間はまたもとの眠ったような空間に戻ったという。作品が展示場所の一部となる「場の彫刻(サイト・スペシフィック)」のスケールは次第に巨大化し、パリやアイスランドのヴィデイ島はじめ、ロンドン、バルセロナなど諸都市に設置されている。
1970年、東京ビエンナーレで来日、上野公園に大きな杉の木を植え、地面に大きな鉄の輪を埋め込んだ。その「場の彫刻」は日本の若い作家たちにも多大な影響を与えた。

略歴

  リチャード・セラのモニュメントをめぐって、有名なエピソードがある。1981年、ニューヨークのマンハッタンの連邦ビル前広場に、巨大な鉄板をやや弓形にそらせた『傾いた弧』が設置された。ところが、ビルに働く人々のあいだから、景観の邪魔になる、それに、もし倒れでもしたら危険この上ない、と抗議の声が起こり、結局、作品は8年後に取り払われた。設置されていたあいだと撤去後に見た人によれば、もともとさびれかけていた広場が『傾いた弧』の出現によって活性化され、ダイナミックな環境に変貌していたのが、撤去後、もとの眠ったような空間に戻ってしまったという。特定の広場のためにつくられた作品だから、撤去は、その消滅を意味する。しかし、短命に終わった『傾いた弧』は、都市空間についてさまざまな問題を提起してくれた。
このエピソードが示すように、セラの公共彫刻は建築的なスケールをもち、その造形には人々の不安感をかきたてる要素がある。周囲の環境に対し、しっくりと調和するというよりも、都市生活者に心理的な駆け引きを突きつける。磨かれた石やブロンズの彫刻のもつ美観とは縁遠い。だが、それこそがセラの彫刻の比類ない魅力といっていい。鉄の肌は荒々しく、不逞な力を発散させている。工業用製品にあまり手を加えずに緊張感に満ちた造形に仕立てるミニマリズムの美学は、カール・アンドレやドナルド・ジャッドにも共通するものだ。
1938年、サンフランシスコに生まれ、カリフォルニア大学とイェール大学で学んだ。1964年から65年までイェール大学の奨学金を得てパリに住んだとき、パリ国立近代美術館内に復元されていたコンスタンティン・ブランクーシのアトリエを訪れて、生活空間と仕事の空間とが区別されておらず完全に融合していることに感銘を受け、この体験は後年、セラの公共彫刻の性格を決定づけた。ローマでの個展で発表した、生きた動物と剥製を檻の中にいれた作品は、イタリアの「アルテ・ポーヴェラ(貧しい芸術)」の先駆けとなった。
1960年代後半、ニューヨークに定住するようになってからは、ゴム管やネオン管を使ったシリーズや、溶かした鉛を散らせた作品などの制作を続けた。こうした作品群によって、セラはロバート・モリス、エヴァ・ヘッセ、ブルース・ナウマン、ロバート・スミッソンらとともにプロセス・アート、アンチ・フォーム(反形体)運動の中心人物となった。
セラはカリフォルニアでの学生時代、製鋼所や工事現場でアルバイトに励んだ。セラの作品は、従来の彫刻ではなく、塔、ダム、サイロ、橋、トンネル、摩天楼といった構築物の系譜に連なるものだ。スチールで「場の彫刻(サイト・スペシフィック)」を制作しようと決めて以来、これまでのスタジオから抜け出すことになった。スタジオが都市計画や産業界に入れ替わり、制作の協力者は建築業者、土木技師、運送業者に、そして製鋼所や造船所が「外に繰り出したわがアトリエ」となった。こうした状況のもと、巨大な金属板を重力の均衡で相互に寄りかからせた作品を手がけるようになった。
「場の彫刻(サイト・スペシフィック)」について、セラはこう記している。
「その置かれる場所の環境条件と深い関係がある。作品の規模、サイズ、そして置かれる場所は、街のなかか、自然の風景のなかか、建物の内部かによって決められる。作品はサイト(展示場所)の一部となり、その場所の構成要素を概念的にも知覚的にも再構築する。私の作品は、サイトを装飾したり、説明したり描写したりはしない」
セラの彫刻は美術館の内部に収まりきれるものではなく、公共の場に設置されてこそ、その真価を発揮する。1970年代から80年代にかけて、3部から成る『スピン・アウト:ボブ・スミッソンのために』(1972-73)、パリ、デファンス地区の『スラット』(1980-84)、はじめはパリのチュイルリー公園に設置された『クララ─クララ』(1983)など、「場の彫刻」のスケールは、しだいに巨大化していった。
『スラット』は、4枚の鉄板を長方形に組み上げただけのものだが、この地区に林立する多彩なモニュメントのなかでも、とりわけ異彩を放っている。ヨーロッパには、ほかにも18本の石柱から成るアイスランド、ヴィデイ島の壮大なモニュメント『アファンガー』(1990)をはじめ、ロンドン、バルセロナ、ベルリン、ハンブルグ、バーゼルなどの諸都市に大作が設置されている反面、『傾いた弧』が撤去されてしまった故国アメリカでは、セントルイスとダラスの作品を数えるくらいなのが皮肉である。
1970年の春、第10回東京ビエンナーレに招待されて初めて来日、上野公園に杉の木を植え、公園の地面に大きな鉄の輪を埋め込んだ。その「場の彫刻」は日本の若い作家たちにも多大な影響を与えた。またセラにとって京都の禅寺の庭園をつぶさに研究したことは、「場の彫刻」の概念を啓発するところ大であったに違いない。


松村寿雄

略歴 年表

1938
11月2日、カリフォルニア州、サンフランシスコに生まれる
1961-64
イェール大学で美術を専攻、ヨゼフ・アルバースの教えを受ける。ロバート・ラウシェンバーグ、アド・ラインハルト、フランク・ステラらに出会う
1964-65
イェール大学の奨学金を得てパリに住む。フィリップ・グラスに出会う
1965-66
ギリシャ、トルコ、北アフリカに旅行。フィレンツェに1年間住み、ローマのラ・サリータ画廊で初個展
1966-67
ニューヨークに戻る。ゴムやネオンを使った一連の作品を制作。カール・アンドレ、エヴァ・ヘス、ジャスパー・ジョーンズ、ブルース・ナウマン、ロバート・スミッソンらに出会う
1968-69
溶かした鉛のシリーズを制作開始。鉛のシリーズをグッゲンハイム美術館に展示
1968-70
鋏で切ったり、引き抜いた、切断のシリーズ
1968-71
巻いたり、重量をかけて立て掛けた鉛シリーズ
1969
ニューヨーク、レオ・カステリ画廊で個展
1970
ジョーン・ジョナスと日本旅行、「東京ビエンナーレ」出品のため東京と京都で制作開始。12本のモミの木材(カリフォルニア州パサデナ美術館)
1972
「ドクメンタ5」(カッセル、ドイツ)に出品
1976
「ドローイング・ナウ」(ニューヨーク近代美術館)に出品
1977
西ドイツのティッセン製鋼所で70tの立方体Berlin Block for Charlie Chaplinを制作、79年にベルリン・ナショナル・ギャラリーの正面に設置
1981
マドリッドに巨大な都市彫刻を制作。ニューヨーク、フェデラル・プラザの巨大彫刻“傾いた弧”を完成。カイザーリンク賞受賞(旧西ドイツ、ゴスラル市、作品は同市に永久設置)
1983
パリ、ポンピドー・センターで個展。パリ、チュイルリー公園に「クララ・クララ」設置。再来日、東京、アキラ・イケダ・ギャラリーで個展、鉄板を用いた 3点のインスタレーション
1985
カーネギー賞。米国芸術・文芸アカデミー会員
1986
ニューヨーク近代美術館で回顧展
1988-90
大規模な版画展がヨーロッパを巡回
1989
度重なる公聴会の結果“傾いた弧”の撤去が決まる
1990
「リチャード・セラ、ドローイングス1969-1990」刊行
1991
芸術勲章(フランス)。ヴィルヘルム・レームブルック賞(デュイスブルク、
ドイツ)
1994
高松宮殿下記念世界文化賞・彫刻部門受賞
1999
スペイン、ビルバオのグッゲンハイム美術館で回顧展
2024
3月26日、アメリカ・ニューヨーク州ロングアイランドにて死去

主な作品

1972
「シフト」(キングシティ、カナダ) サイト・ポイト(アムステルダム美術館の庭)
1980
セント・ジョーンの「弧」(ニューヨーク)
1981
「傾いた弧」(フェデラルプラザ、ニューヨーク)
1987
「ベルリン・ジャンクション」 (マルティングロピウスバウ、ベルリン)
1990
「アファンガー」(ヴィディ島、レイキャヴィック、アイスランド)
1992
「ウエイト・アンド・メジャー」(テイト・ギャラリー、ロンドン)
1993
「グラヴィティ」(米国ホロコースト記念館、ワシントンDC)
  • カッティング・ディバイス

  • アトリエにて

  • アトリエにて

  • アトリエにて

カッティング・ディバイス
ニューヨーク近代美術館 1969年

アトリエにて
©The Sankei Shimbun

アトリエにて
©The Sankei Shimbun

アトリエにて
©The Sankei Shimbun