第18回
2006年
演劇・映像部門
Maya Plisetskaya
マイヤ・プリセツカヤ
20世紀最高と称賛されるロシアのバレリーナで、元ボリショイ・バレエのプリマ。ロシアの芸術一家に生まれたが、父親はスターリン体制下で政治犯の嫌疑をかけられ銃殺、母親も流刑に処せられた。ボリショイ・バレエ学校を卒業。独ソ戦中からボリショイ劇場のソリストとなり、瞬く間に人気を博し、「主役を演じない舞台はない」と言われる。「瀕死の白鳥」で名声を不動のものにした。だが、プティやベジャールらの振り付けで、「カルメン組曲」や「ボレロ」など反ソ連的な新作に次々と挑戦を続けたため、当局から24時間身辺を監視され、プリマでありながらなかなか海外公演を許されなかった。当局からの抑圧に耐えることができたのは「夫(作曲家のロディオン・シチェドリン氏)の助けがあったから」。同氏の作曲で、「アンナ・カレーニナ」「かもめ」「小犬を連れた貴婦人」などを振り付け、出演し、演劇界に新風を吹き込む。大の親日家で、若手の育成にも力を入れている。
略歴
20世紀最高と称賛されるロシアのバレリーナで、元ボリショイ・バレエのプリマ。旧ソ連体制下で、バレエ界に絶えず新風を吹き込み、生きる喜びと希望を観衆に与え続けた。バレエの発展に大きく貢献すると共に、演劇界にも新たな境地を開いた。その才能は「天から授かったもの」と、おどける。
だが、その人生は、苦難に満ちていた。母親は女優、叔父はボリショイ・バレエのバレエ・マスター。そんなモスクワの芸術一家に生まれ、8歳でボリショイ・バレエ学校に入ったところまでは順調だった。しかし11歳の時、父親はスターリン体制下で政治犯の嫌疑をかけられ銃殺、母親も流刑に処せられた。それでも叔母のところから学校に通い、最優秀で卒業。独ソ戦の最中からボリショイ劇場のソリストとなる。その美貌と高度の技巧、芸術性を買われて瞬く間に人気を博し、「主役を演じない舞台はない」と言われた。1960年、ガリーナ・ウラノワの引退後は、ボリショイ・バレエの並ぶ者なきプリマとなる。
だが、舞踊芸術の可能性を追求し、ローラン・プティやモーリス・ベジャールらの振り付けで、「カルメン組曲」や「ボレロ」などの反ソ連的な新作に次々と挑戦を続けたため、旧ソ連当局から24時間身辺を監視され、プリマでありながらなかなか海外公演を許されなかった。当局からの抑圧に耐えることができたのは、「夫(作曲家のロディオン・シチェドリン氏)の助けがあったから。一人では勝つことはできなかった」という。また、同氏の作曲で、ロシアの文豪たちの作品「アンナ・カレーニナ」「かもめ」「小犬を連れた貴婦人」などを振り付け、出演し、演劇界に新風を吹き込む。
彼女にとって特別な演目は、これまでに数千回は踊ったという「瀕死の白鳥」。世界中の観客を魅了してきた「白鳥」は、踊る毎に振り付けを変えたり即興で踊ったりして、別の白鳥になったという。
81歳の今でも現役ダンサーとして舞台に立ち続ける。大の親日家で、今回が37回目の来日。日本でも彼女に憧れ、バレエを始めたという女性も少なくないだろう。94年から「マイヤ」と呼ばれる国際バレエコンクールを主宰。舞台だけではなく指導者としても熱心な活動を行い、若手の育成にも力を入れている。
略歴 年表
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©The Sankei Shimbun 2006
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ミュンヘンのリハーサル室にて
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マイヤ・プリセツカヤ、夫で作曲家のシチェドリン氏とミュンヘンにて,2006
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瀕死の白鳥、1943
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せむしの子馬、1961/62
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ドン・キホーテ、1964