第12回
2000年
彫刻部門
Niki de Saint Phalle
ニキ・ド・サン・ファール
豊満な女性「ナナ」に代表される自由奔放で色鮮やかな造形は現代アートの世界でもひときわ異彩を放つ。様々なポーズをとるナナは、女性の様々の生き方の象徴であり、大地母神の象徴であって、おおらかな生命力に溢れている。
1930年、フランス、パリに生まれ、ニューヨークで育つ。青春時代にはモデルとしてヴォーグやライフの表紙を飾った。25歳のとき、バルセロナでガウディの「グエル公園」を見て感動し、芸術に生きることを決意。後に生涯のパートナーとなるスイス人のアーティスト、ジャン・ティンゲリーと出会う。31歳のとき、「射撃絵画」で美術界に衝撃を与えた。絵の具を入れた缶や袋を板やオブジェに石膏で塗りこめ、それをライフルで撃って絵の具を飛び散らせるという暴力的なものであった。しかし5年後、女性像の連作「ナナ」シリーズへ変身をとげる。それは痛みや苦しみを乗り越えて生きる喜びを伝えたいという彼女自身の成長によるものという。ティンゲリー(1991年死去)と構想した彫刻庭園「タロット・ガーデン」を98年、イタリアのトスカーナ州に自費で完成させた。栃木県の那須にも94年に「ニキ美術館」がオープンした。2002年死去。
略歴
ニキ・ド・サン・ファールは1930年、フランス人の父親とアメリカ人女優との間に出生した。幼児期からニューヨークで育ち、修道院女学校と家庭で厳格なカトリック教育を受けた。
18才で結婚し、21才で長女ローラを出産するが、美貌をかわれて「ライフ」や「ヴォーグ」など一流雑誌の表紙を飾るほどのモデルをつとめる。しかし、少女時代から内面に欝屈する反抗の思いが強く、ただ美しい装いだけのモデルの生き方には耐えられなくなってゆく。ニキは自己解放と治癒のために芸術家の道を進むことを選んだ。
1955年、25才はニキにとっての運命的な転機の年であったということができよう。一つは南仏オートリーヴにあるF.シュヴァル(1836-1924)の不思議な城を見た事。二つめは、スペイン・ヴァルセロナにあるA.ガウディ(1852-1926)のグエル公園を訪れたことであった。ニキは「まさに神の啓示をうけた如く、自分も生涯において、必ず理想宮を作るであろうことを予感した」という。
最後にこの年、やがて終生の制作パートナーとなるスイス人、動く鉄のアーティストと言われたジャン・ティンゲリー(1925-91)に出会っている。彼から「技術なんかは何でもない。夢こそ全てだ」と励ましを受ける。この言葉は美術教育を受けていないニキにとって制作の支えとなり、以後、その芸術活動は開花していったのだ。
60年代初頭の銃による「射撃絵画」は、教会、学校、家庭など偽善的支配的社会の醜悪な面を暴き撃つことによって、社会と美術界に衝撃を与えた。このことについてニキは、「テロリストになる代わりにアーティストになった」と語っている。
最初は、単なる板、又はただワイヤを巻いただけの物に、絵の具の缶や袋を石膏で塗り込めて、それをライフルで撃つ。その時、絵の具の飛散した作品は、あたかも血を流す生贄となり、それが葬礼の儀式となる。「犠牲者なき殺戮であった」とニキは言う。
そのうち、射撃の内容に意味が加わってゆく。女を取り巻き窒息させる状況を、在り物、既製物を使って表現してゆく。ニキは62年、「祭壇」を作り、「怪物のハート」、「キング・コング」、「赤い魔女」などの代表作を次々と産み出していった。
この時期を“怒りの量的生産時代”ということが出来ると思う。怒りの対象が、女の私的状況から社会的状況に変わってゆくのがめざましい。ニキは世界と対峙し“世界を掴んだ”といえる。独自の表現に至ったのだが、それは出発のほんの始まりに過ぎなかったという所がまた凄い。今世紀を代表する一人の天才芸術家の誕生が、まさにこの時期に形成されたといっても過言ではないであろう。
そして、質量共に過激さの増大してゆく怒りの制作時代、嵐のような悪魔祓いの儀式「射撃」は突如、終焉を迎える。
自己の作品をすべて自分史といいきるニキは、次に「女の役割」の表現に目を向けた。「花嫁」、「妊娠」、「出産」、「母親」それぞれのシリーズは、「射撃」によって自らの欝屈を解き放ったのちのどちらかといえば客観的な、そしてかなり苦渋に満ちた作品群である。痛烈な自己透視すら感じられる。
ニキの言葉によれば「大変苦しみながら」これらを制作していたが、当時、隣のアトリエにいた友人、クラリスが妊娠し、日々膨張、豊満になっていくのを見てインスピレーションを得、「ある日突然、自由になった」ニキは、65年、「力を持ったナナ達」など、後年、代表作といわれる一連の自信と力に溢れる、豊満な女像「ナナ」シリーズを次々と生み出していくのだ。こう見ていくと、常に真摯であり続けたニキの姿勢が作品から伝わってくる。
その後も、精力的に優れた作品を発表しつつ、そしてついに98年、生涯の夢であった理想宮、彫刻公園をイタリア・トスカーナの丘に完成させて、今日に至っている。
増田静江
2002年5月、アメリカ、サンディエゴで逝去
略歴 年表
本名カトリーヌ・マリー=アニエス・ファール・ド・サン・ファール
銀行家の父が大恐慌で破産、両親と離れて仏の祖父母のもとで過ごす
女子修道院付属小学校に入学、厳格なカトリック教育を受ける
油彩画、グワッシュなどの制作を始める
パリで演劇を学び始める
翌53年神経症を患いニースで一年療養し、絵を描くことで回復を得る
ガウディの建築 「グエル公園」 に感銘を受け、後にタロット・ガーデンへの計画へと結び付く
ルーヴル美術館でクレー、マティス、ピカソ、ルソーの作品に触れる
ジャン・ティンゲリー夫妻との最初の出会い
ティンゲリーとスタジオを共有する。「射撃絵画」が生まれる
パリ、ストックホルム、ニューヨーク、カリフォルニアで 「射撃」 のパフォーマンスを行う
ヌーボー・レアリスムのグループ唯一の女性メンバーとなる
パリで画家ヴィクトア・ブラウナー、マックス・エルンスト、ルネ・マグリットらに出会う
花嫁、娼婦、出産、魔女などをテーマに制作
これらの作品から65年、「ナナ」が 生まれナナ・シリーズの制作が始まる
カナダ、モントリオール万博の仏パビリオンにティンゲリーと 「幻想楽園」 を共同制作
南仏のマーグ財団に 「ナナ・ハウス」 を設置
ポリエステルを素材に使用し始める
東京で初の個展 (82年 ギャルリー・ワタリ、80、82、86年 スペース・ニキ)
ガラスや鏡、陶片を素材に使用し始める
初めてのキネッティックアート 「メタ・ティンゲリー」 を制作
カリフォルニア州、サンディエゴ近郊に居を移す
「タロット・ガーデン」 を完成させる
主な作品
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「射撃絵画」を制作するニキ・ド・サン・ファール
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ミス・ブラック・パワー
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タロット・ガーデン
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タロット・ガーデン
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アトリエにて
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アトリエ近くの海岸
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©The Sankei Shimbun