第13回

2001年

彫刻部門

Marta Pan

マルタ・パン

 水の上で印象深いフォルムを見せる「浮かぶ彫刻」をはじめ、野外の風景や都市の環境に調和する美しい彫刻で、現代美術に新しい波を起こした。ハンガリー出身の彫刻家。
1923年、ハンガリーのブダペスト生まれ。ブダペスト国立美術学校を卒業後、パリに移住。現代美術の巨匠、フェルナン・レジェやブランクーシと交流を持つ。現代建築に大きな足跡を残したル・コルビュジエのアトリエで、生涯のパートナーとなる建築家のアンドレ・ヴォジャンスキーと出会い、結婚。以降、パリ郊外に住みながら旺盛な創作活動を続けている。
ポリエステル樹脂やステンレスといった現代的な素材を用いた、シンプルで完成されたフォルム。どの作品も時間、場所、周囲との関係まで成り立っている。自然の中に置かれて、おおらかで心地よい自由な空間を生み出すパンの作品は、環境芸術の先駆けともなり、オランダのクレーラー=ミューラー美術館の庭園など世界中の美術館や公園に置かれ、市民に親しまれている。日本でも、東京の都庁舎の人工池にある「風景の断片」(1991)や、横浜関内ホールの「平和」、箱根・彫刻の森美術館の池にある「浮かぶ彫刻」(1969)、札幌、芸術の森美術館にある「浮かぶ彫刻・札幌」(1986)など数多く見ることができる。

略歴

  1923年、ブタペスト生まれのマルタ・パンは、美術学校で彫刻とデッサンを学んだ。後、1947年憧にれのパリ遊学を果たした。当時のパリには70歳を越したブランクーシがまだ健在であった。彼女はこの現代彫刻の祖、ブランクーシの人と作品から、ある精神的な理想美を想わせる内的なものを含めて、多大のインスピレーションを受けている。時に24歳。彼女の目は、単体の彫刻の裡に有機的な美を抽出するだけにとどまってはいなかった。彫刻というエレメントとそれが潜める特性と限界にも注目している。

同じ時期、彼女は生涯を通しての人間的成長の上でも、一芸術家としての完成においても、考えうる限り幸運にしてかつ重要な意味を持つ機縁に恵まれた。後にル・コルビュジェのパートナーとなるポーランド貴族出身の少壮建築家、アンドレ・ヴォジャンスキーとの出会いと結婚である。マルタ・パンの才能は、夫ヴォジャンスキーというもう一つの大いなる才能たる風を、その帆いっぱいに受けて彼女の目指す海路に向け順調に滑りだした。

1960年代以降、彼女の作品は、ヨーロッパの国境を越えて、北米、そして日本のさまざまな都市空間を飾り、生気を吹き込むこととなった。
20世紀西洋の卓越した芸術家たちがそうであったように、マルタ・パンの内的世界にも、日本古来の芸術的スピリット - 自然に対して示した繊細な感受性とある種の美的純粋さ、と呼べるような資質 - との符号が透かしてみえる。

西暦2000年の、一見私的な情景は、象徴的なエピソードかもしれない。丁度、マルタ・パンが私の家に遊びにきていた時のこと。卓上の雑誌を何気なくながめていて、ある頁の写真をみるなり、思わず驚きの言葉を私に投げてよこした。「まあ、いったいこれは何なの?」。さざ波立つ湖水に、たくさんの細い木の棒が、長いイレギュラーなフェンス状に、竹で編まれて矢印形に弧を描いている。その全体が、折りしも夕陽を浴びて、金色の光の粉をふいているようで、ちょっと古代ギリシャの装身具か、エレガントな抽象彫刻とみまうばかり。

しかし、それは昔、日本の漁師が発明した魚をとるための竹簀なのであった。「魚の通る路に、長く竹簀を張って、自然に魚をしかけに導く漁法だわ」。こちらの説明を半ば呆然と聞きながら、マルタはいった。「このあいだ、私が試作したパリ郊外の水に浮かぶ彫刻は、これにそっくり。素材は金属だけど。まるで私がここからヒントをとったように思われる位似ている。何て言う偶然かしら!」・・・。

ともあれマルタを驚かせた二つの異なる水上の造形。人も、時代も、国も、目的も、何もかも違う、これら“二つの形”が似ていたのは、偶然ではない、と私は思う。一つは類まれな感性の持ち主で、現代を呼吸する彫刻家が、湖の風景と戯れにやってくる都市人間たちのために創った新しい刺激的な美。もう一つは、昔の日本の、素朴な猟師たちが、魚を誘い込むために、創意工夫してでき上がった道具。どちらも、形をみちびいた素が優美である。

「水のことは水に習い、木のことは木に。石のことは石に習う」といった昔の日本人の知恵は、本来、世界に通ずる美の表現の規範なのであった。だから、マルタ・パンの作品と、日本の無名の猟師の創意工夫は、その辺の心の軌跡を通じて、よく似た美を結晶させたのであろう。

一方、1970年代後半、大阪を訪ねていたマルタ・パンは、下町の古い街並みの真ん中に、白い鉄筋のコンクリートのファサード - 純度の高い簡潔な幾何学 - を見いだした時の衝撃的な悦びを折にふれて懐かしむ。その抽象美が、建築家安藤忠雄の小さいスケールの処女作「住吉の長屋」と知るのは後のことだが。

以来、マルタ・パンにとっても、氏の人と作品が共感の対象となっていることは、私などにもよく理解できる。
優れた芸術家の美意識と倫理観は、国境を越えて、多くの人々の心を打つ。マルタ・パンは、今日もその意志を担って、世界を旅する。                                                                                        漆原美代子
 
2008年、10月12日、パリ郊外にて逝去

略歴 年表

1923
6月12日ハンガリー、ブダペストに生まれる
1946
ブダペスト国立美術学校卒業
1947
パリに移住
1948
ル・コルビュジエのアトリエでグループ・プロジェクトに参加
1952
パリで初個展
建築家アンドレ・ヴォジャンスキーと結婚
1956
モーリス・ベジャールと共にバレエ「ル・テック」制作
1961
「浮かぶ彫刻」クレラー・ミュラー美術館
アムステルダム・ステデリク美術館にて個展
1967
「音響壁面彫刻」グルノーブル文化会館
最初のアクリル彫刻を制作
1969
「浮かぶ彫刻」箱根彫刻の森美術館
1971
「浮かぶ彫刻」セーヌ・サン・ドニ県庁
1973
「浮かぶ彫刻」ニューヨーク、セントラルパーク(77年ダラス市庁舎前に設置)
1982-83
「噴水のあるパティオ」、「噴水のための音楽/水/光のプログラム」シャンゼリゼ通り26番地
1984
「三つの部分からなる彫刻」神戸・ワールド本社ビル
1986
フランス、サン・カンタン・アン・イヴリーヌの新都市計画、ブレストの公共空間都市再開発に参加
「迷路状の流水」パリ・お祭広場
パリ建築アカデミーより造形芸術メダル受章
1990
「碑」、「レンズ」千葉・幕張テクノガーデン
「分割された球」東京・御殿山ヒルズ
1991
「風景の断片」東京都庁舎
1993-94
「マルタ・パン・イン・ジャパン」展が札幌、鎌倉、河口湖、倉敷、東京など日本各地を巡回
1994
芸術文芸勲章コマンドール章
1997
「割れ球体」(84年制作)東京都現代美術館
2001
高松宮殿下記念世界文化賞・彫刻部門受賞
2008
10月12日、パリ郊外にて逝去
  • スタジオにて(2001)

  • 浮かぶ彫刻(1969)

  • らせん(1961)

  • 展望(サン・カンタン・アン・イヴリーヌ、パリ郊外、1990)

  • 展望(サン・カンタン・アン・イヴリーヌ、パリ郊外、1990)

  • 無限記号(リヨン市郊外、フランス、1993)

講演会

マルタ・パン   「風景のなかの幾何学」

第13回 高松宮殿下記念世界文化賞 受賞記念講演会

今晩は。ただいま紹介していただきました三宅さん(三宅理一  慶応大学教授)に厚くお礼を申し上げます。もっとも、日本語が分からないので、三宅さんが私のことをどう紹介してくださったのか分かりませんでしたが(笑)。

本日は、私は皆さんに「空間」のことをお話したいと思います。と申しますのも、空間こそが私たち彫刻家の仕事場だからです。つまり、私は作品のフォルムをどうするか考え始める前にまず、創作活動のために与えられた場所と作品との間にどんな関係を結ぶべきかを考えるのです。場所への関わり方については、私は2つのやり方、2つの態度がありうるのではないかと考えています。一つは、それが都会的なものであれ自然のものであれ、風景を支配し、そこに自分たちのイメージを押し付ることで、自らの存在をそこに刻み込もうとするするやり方です。もう一つは、反対に風景の中に自ら溶け込み、風景を生かし、補い、再創造することによってそこに自らの存在を刻み込むやり方です。

場所との関係は人間関係と同様、激しいものであったり温和なものであったり、支配的なものであったり均衡の取れたものであったりします。ですから、正しい関係を結べるかどうかが、場所と良い関わりを結べるかどうかの決定要因になるわけです。

芸術作品の存在はボリュームとかフォルム、色彩、素材によって定義されるものではありません。そうではなくて、芸術が寄与できるのはエネルギーを与えることです。芸術は周囲の空間の力に抑揚をつけ、かつ強めるのです。場所と、そこを通り抜ける人々の行動に働きかけるこうした能力こそが、私たち彫刻家の力であり、存在理由であり、そして責務でもあります。

都市空間は建造物の空間からなる「陽画フォルム」と、建造物の回りに作られている道や広場からなる「陰画フォルム」の2つに分けられると思います。道や広場は都市構造の関係を結びつける役割を果たしています。それらは人々のコミュニケーションの網を巡らせ、活力の流れを生み出しています。活気、活力は、道や広場の空間概念からどんなエネルギーが発散されるかによって違ってきます。芸術作品の重要な素材であるエネルギーによって、多少とも強い緊張の中で空間にメリハリを付けることができ、かくして集中と転移の場が創造されるようになるのです。

人々と場所との間には交流が起こります。人々は遠い場所の出来事、フォルム、水の音をかすかに感じながら、場所によって歩みを緩めたり速めたりします。ここで言う出来事とは、径路の中の緊張点の高い場所であって、人々が集会やイベントといった賑やかな催物をするための力を持った場所なのです。一方、径路上には休憩と息抜きのための場もあります。このように都市径路をたどりつつ、私たち彫刻家は都市径路を通る人々の行動に何か変化を与える力、ひいては責任を持っています。しかし、最終的にそれをどう利用するかは利用者自身が決めることになります。

では、スライドをご覧ください。日本で最初の作品、箱根・彫刻の森美術館の「水に浮かぶ彫刻」(写真1)です。水に浮かぶことによって、自然なかたちで移動することができます。
ドイツにつくった浮かぶ彫刻です。彫刻の位置が変わることによって、彫刻同士の関係が変わってきます。建築は生命感が薄いので、動くものを介在させることにより、建築に生命感をもたらすことを狙いました。ご覧のように、都市工事計画の初段階の様子です。
ここはフランスのブルターニュ地方のブレストです(写真2)。私は、長さ1200メートルの幹線道路のプロジェクトをまかせられました。その際私は、都市風景の中に生命の大切な要素である水を取り入れて「水の流れ」を創ることを提案しました。右側にあるのが市庁舎です。模型にうかがえるように、私のもともとのプランでは出発点に泉があり、完成するとその水の流れは、港を経て海にいたることになっていました。まつまり、そのルートに沿って水が現れたり隠れたりするはずだったのです。しかし、実際には計画の中央部分しか実現しませんでした。

大阪の「アメニティ江坂  リーニュ・ブランシュの庭」(写真3,4)です。そこで私は「3つからなる彫刻」を制作する稀有の幸運に恵まれました。右側には高さ8メートルのモニュメント、迷路、それに浮かぶ彫刻が、白いラインで互いにつながっています。

  • 1.浮かぶ彫刻3 ©箱根・彫刻の森美術館、1969
  • 2.シアム通りの水路-湖の水路、フランス・ブレスト市、1988 ©Marta Pan
  • 3.アメニティ江坂 リーニュ・ブランシュの庭、大阪・吹田市、1990
  • 4.アメニティ江坂 リーニュ・ブランシュの庭、大阪・吹田市、1990
それから、フランスの新都市で別のプロジェクトを実現できる機会に恵まれました。それは3つの大きな池、その周辺を飾る作品、それに彫刻からなっています。第一の池には日本の書から着想を得た3つの作品が置かれています。四角、三角、それに円形の3つの彫刻で、それは水中の開口部のようになっているわけです。
2番目の池は直径30メートルの円形になっていて、長さ20メートルの彫刻が池を横切っています(写真6)。この作品は水面の上に出て、都市計画に一つの方向性を与えています。池の周辺を飾る2つのアーチに向かって伸びているのです。この2つのアーチが風景の額縁のような役割を果たしています。私はこういうプラン全体によって都市と自然とをつなぐものを作ろうと考えました。
これはアーチから3番目の池まで降りていく水の階段です。
右側に円形の池があり、左下にはアーチがあります。それに、長方形になっている3番目の池には橋がかかっていて、ここでも町から公園に向けて一定の方向性を与えています。これはフランスの高速道路です(写真7)。この作品はコンペに出したものです。標識を作らなければならなかったのですが、問題だったのは、スピードを出して高速道路を走っている車からしか標識が見えないことでした。ですから、ほんの一瞬目に入るだけでも記憶に残るような標識を考案しなければなりませんでした。高さは25メートルあります。
これは、日本の金沢市で制作した最近の彫刻の一つです(写真8)。芦原氏が建築したコンサート会場のためのものでした。高さ10メートルのステンレス製の作品ですが、他の全ての彫刻と同じく、周囲との関係を考えて設置されています。ここでは自然との関係ではなく、建築物との関係を考えたものになっています。

ここは、熱海にある私の好きな場所です。太平洋を背にした丘の上という稀有の条件で仕事ができることは彫刻家冥利に尽きます。この作品(写真9)はステンレスで出来ていて高さは14メートルです。作品は吹抜け構造になっていて、自然がそこを通り貫けるコンセプトになっています。

さて、次に扉のプロジェクトをご紹介しましょう。私は空気、自然、それに人々が彫刻作品の中を通り貫けるというコンセプトに興味をもっています。これは模型ですが、実際の作品は非常に大きな物になるはずです。もっとも、まだ作品は出来上がっておらず、今のところはいわば私の「作品の基本語彙」のようなものに過ぎません。でも、いつかチャンスがあれば、人々が彫刻作品の中を通りぬけられるようにするという私の夢を実現できるかもしれません。扉は一つのシンボルなのです。開かれた扉は私たちを一つの場所から別の場所、現在から未来へ導いてくれるのです。それはある別の世界、発見に通じるかもしれない通過点なのです。

私は、無に近いものによってほぼ全てを表現することができればと考えています。と申しますのも、人は無に近いできるだけシンプルなものによってこそ、他者と一番良くコミュニケートできるからなのです。ご清聴、どうも有難うございました。

  • 5.自作の前で(サン・カンタン・アン・イヴリーヌ、1990) ©Sankei Shimbun
  • 6.展望、サン・カンタン・アン・イヴリーヌ、パリ郊外、1990 ©Sankei Shimbun
  • 7.無限記号、フランス・リヨン郊外、1993 ©Marta Pan
  • 8.彫刻U、石川県立音楽堂、金沢市、2001
  • 9.先人の碑、静岡県・熱海伊豆山、2001 撮影: 平 剛

会場との質疑応答:  21世紀の芸術家の役割について

この混乱の時代には、芸術家は特別に大きな責任があると私は考えています。人々が感じている人生の困難が過度のものにならないようにするべきです。人を傷つける攻撃性や、人々の間の無理解に対抗する武器はまさに文化なのですから。人間は自分たちが思っている以上に互いに似ており、違っている部分は似ている部分よりもずっと少ないのですが、このことは教育や文化を通じてのみ、長い間に少しずつ人々に分かってもらえるようになるのです。それに私は、今は攻撃性を増加させるべき時ではないのだと信じております。それだからこそ、私は少なくとも自分に関する限り、都市風景を含めて自らを風景に溶け込ませる考え方を擁護するのです。今以上に人々の気持ちを荒立てるのではなく、人々に落ち着いてもらう一つの方法としてそうするのです。21世紀になったからといって人々の考え方が変わるわけではありません。それが変わるのは環境の変化によってなのです。今まさに起きていることはそういうことです。そのために人は自らの行動をもっとよく考えなくてはいけないのです。人はそれぞれ固有の責任を持っており、この点は芸術家でも同じことだからです。

スタジオにて(2001)
©The Sankei Shimbun

浮かぶ彫刻(1969)
©箱根・彫刻の森美術館

らせん(1961)
250×200×86cm ©The Sankei Shimbun

展望(サン・カンタン・アン・イヴリーヌ、パリ郊外、1990)
©The Sankei Shimbun

展望(サン・カンタン・アン・イヴリーヌ、パリ郊外、1990)
©The Sankei Shimbun

無限記号(リヨン市郊外、フランス、1993)
©Marta Pan