トップ 受賞者一覧 ジャン・ヌーヴェル

第13回

2001年

建築部門

Jean Nouvel

ジャン・ヌーヴェル

パリ、セーヌ河畔の「アラブ世界研究所」(1987)で、アラブの伝統的文化とカメラのレンズの仕組みを応用したハイテク機能を駆使し、斬新な設計で一躍、脚光を浴びたフランスの建築家。
先史時代のラスコー遺跡や中世建築が残るフランス南西部、フュメルに生まれ、当初は画家を目指して国立美術学校に学ぶが、建築に転向。70年に事務所を設立してから、住宅などの設計をてがけながら、多くのコンペに応募。
81年にミッテラン大統領が発表した“グラン・プロジェ”の一環、「アラブ世界研究所」(1987)によって名声を高める。カメラの絞りの機能を応用したその壁面は、時刻や天候の変化によって館内の明るさを調節している。93年の屋上にガラスのドームを取りつけた「リヨン・オペラ座」、94年の「カルティエ財団」などで、伝統とハイテクノロジーを折り重ねた斬新な作品を次々に発表した。「現代性とは何がしかの発展性があることです。60年前の現代建築には人間性や肉感性が欠けていました。誰かに喜びを与えることも建築では重要なのです」と語るヌーヴェルは、黒の上着に黒のパンタロンという黒尽くめの服装で、いかにも1968年5月革命世代らしい迫力に満ちている。
現在、パリでシラク大統領提案による、3000点が展示予定の「原始美術館」に取り組む一方で、東京では大手広告会社、電通の汐留新本社ビル(2001年10月完成予定)が進行中。約100人のスタッフが働くパリの下町、工場跡地を利用した事務所内は町工場のように活気に溢れている。

略歴

  1945年8月12日、フランス南西部フュメル生まれ、パリのエコール・デ・ボザールで建築を学んだ。代表作はパリ・セーヌ河畔に建つ「アラブ世界研究所」(1987年)。ミッテラン大統領時代に行われたビッグ・プロジェクトの一つで、設計競技で獲得した。その特異なデザインは大きな話題となった。

建物はアラブ文化の貴重な資料を展示・公開するための公共施設。アラブ特有の幾何学模様の斬新なガラスの外観は、カメラの絞り機能を応用した1600枚のダイヤフラムを使用。絞りと開放を調整して館内の明るさを自動でコントロールする仕掛けとなっていて、先端技術と伝統が見事に融合した建築だ。ヌーヴェル自身、「完成して一番感動した建築」という。建って15年が経過しているにもかかわらず色あせることはない。

同じくフランスの「リヨン・オペラ座」(1993年)は、火災にあって使われなくなっていた歴史的な建造物にガラスのドームを既存の屋根の上にのせ、ハイテクのモダンなオペラ座へと変貌させた。これも「アラブ世界研究所」と同様にコンペで獲得した。

現代的な素材であるガラスを好んで使うヌーヴェルは、パリの「カルティエ財団」(1994年)でも透明ガラスで外観を覆った。さらに、コンペで獲得したベルリンの「ギャラリー・ラファイエット」(1996年)でも外観をガラスで包み、内部吹き抜けに巨大な円錐のガラスをはめ込んだ。特殊なフィルムで覆われたガラスの円錐は光を反射してさまざまに表情を変えていく。

「透明性は素材と光の問題と言い直すこともできる。建築家の最大の問題は現代文化をどう取り入れるかだ。つまり、素材の性格の問題と光の関係は二十世紀を通して建築家全体の課題だった。私の場合、透明性の概念はガラスという素材と結びつき、さらに永遠性や一瞬との関係を追求する結果になった」

谷崎潤一郎の『陰影礼讃』を愛読し、桂離宮が好きだというヌーヴェル。彼が日本で取り組んでいるのが、東京の「電通汐留本社ビル」(2002年秋完成予定)。高さが210メートルの高層ビルだ。「障子のイメージを取り入れた」という南側の外観は、特殊な半透明ガラスにしていて、障子を連想させる。

「設計は、土地の特性や歴史的なコンテクスト、文化などを読み取り、解釈することから始まる。そうした特殊な状況を考慮、分析し表現するわけです」。地域性や文化というものを取りこんだ彼の建築は一つとして同じデザインはない。

「インターナショナル・スタイルという同じような形の建築が世界各地に建てられているが、建築は文化の表現であり、アイデンティティーを忘れてはならない」

2001年12月6日から2002年3月4日までパリのポンピドー・センターで「ジャン・ヌーヴェル」展が開かれた。


渋沢和彦

略歴 年表

1945
8月12日南フランス、ロ・エ・ガロンヌ県、フュメルに生まれる
1966
パリ国立美術学校で建築を学ぶ
1970
事務所設立、設計活動を始める
1972
パリ国立美術学校卒業
1980
パリ・ビエンナーレの一環として「建築ビエンナーレ」を創始、その芸術監督を務める
1983
ブエノス・アイレス大学より名誉博士号
1987
アラブ世界研究所(パリ)によりエケール・ダルジャン賞(フランス年間優秀建築賞)、フランス建築グランプリ受賞
1989
アラブ世界研究所(1987)によりアガ・カーン賞受賞
1990
サン・ジェームス・ホテル(1989)によりアーキテクチュアル・レコード賞受賞
1993
リヨン・オペラ座によりエケール・ダルジャン賞受賞(フランス年間最優秀建築賞)、アメリカ建築家協会(シカゴ)名誉会員
1994
カルティエ財団(パリ)
ユーラリール再開発に参加
1995
王立英国建築家協会名誉会員
1996
ギャルリー・ラファイエット(ベルリン)
1997
芸術文芸勲章コマンドール章
1998
ルツェルン文化センター(ルツェルン、スイス)
フランス建築アカデミーよりゴールドメダル
2001
高松宮殿下記念世界文化賞・建築部門受賞
2002
東京・電通本社ビル竣工
進行中プロジェクト:
パリ原始美術館
メキシコ、グァダラハラ、JVCビジネス・センター
  • アラブ世界研究所 内部

  • リヨン・オペラ座

  • カルティエ財団

  • ルツェルン文化センター

  • 電通 汐留本社ビル(東京, 2001)

講演会

ジャン・ヌーヴェル建築を語る   「建築の現代性“モデルニテ”」

--第13回 高松宮殿下記念世界文化賞 受賞記念講演会--2000年10月26日(金)16:00~ 於:鹿島KIビル

みなさま、こんにちは。再びここ東京に来られたことを大変喜んでいます。この度、高松宮殿下記念世界文化賞を受賞いたしましたことを、心からうれしく思っております。今回の受賞はまったく予期していなかったため、非常に光栄なことと考えています。特にこの数日間にわたる感激の連続した印象はとても大きいものです。日本という国が国際的なスケールで、文化的価値を高める極めて重要な役割を果たしていると、いま確信しています。
東京で講演が出来ることも楽しみにしていました。思えば今から20年程前に、初めて日本で講演をしたのもここ東京でした。それに、東京で行った数多くの講演の良き思い出も残っています。毎回、多数の若者たちに囲まれました。若手の建築家たちとも思えるし、あるいは建築を学んでいる学生さんだったのかも知れません。

東京では、おそらく他の都会以上に、20世紀において、建築がその意味するところを大きく変化させたことを、皆さん十分にお気づきになっていると思います。20世紀以前、より正確には20世紀初頭以前には、建築は完全にコード化された知識体系を持つ自律した領域であったといえるでしょう。日本では、皆さん周知の屋根の付いた木造建築が、明確に機能と用途の判明できる一連のタイポロジーによって展開されてきました。日本を離れ、ヨーロッパに目を向けても、同様の傾向がありました。木造架構の屋根を持った石造建築です。そこには、公共建築にはそれと同定できるタイポロジーがあり、また集合住宅にもある形式性が備わっていました。

そこに産業革命が起こりました。これに伴い人口が急増し、都会に人口が集中することになりました。それも極めて急激な変化で、すべてが加速された状態でした。人類の歴史のなかで、20世紀はそれ以前の全ての建築量の総和の、おそらく20倍、あるいは30倍もの量を建設しました。数多くの都市で見られたことですが、信じられない程の切迫した状況の中で、さまざまな建物が建造され、予測不能な状態での多くの衝突や事故に遭遇しました。同時に、都市的な基盤の急速な発展に伴う、膨大な科学技術の進展がみられました。その結果、さまざまな形で展開された建設技法、建築技術が生み出されました。
現在、こうした状況を振り返ると、かつて学校で教わっていたいわゆる古典的、自律的な建築の知とは、最もシンプルな方法、つまりコピー方式、アカデミックなシステムでした。アカデミーとは「いくつかのモデルに注目すること」とも言えて、非常に良く考えられた案だとしても、それがまあ良心的なアカデミズムと判断できるのは、在来の文化的モデルを改良した例であるからであって、多くの場合は往々にして、通常使われている悪い意味でのアカデニズムに陥り、これら先例の文化的建築モデルをむしろ弱体化させていたのです。結論として言えることは、こうした諸事実をふまえて、さらに建築という作業を進めるということであります。

今日、これら建築モデルを再生産することは、現実問題として技術体系が変わってしまったことにより、もはや経済的にも文化的にも全く意味を持たないこととなったはずです。もちろん建築家にとっても、もはやこれら過去の設計手法は役に立たないことを示しています。ですから今後、建築家自身はより戦略的に、より知的にならざるを得ないでしょう。
つまり毎回設計にあたるとき、そのプロジェクトが置かれた固有の状況を深く考慮しなければならず、その都度、状況を診断しなければならないでしょう。
この診断という言葉は分析、解析することを意味しています。それぞれの状況というのは、ほとんど他に例のない唯一無二のものといえます。そこで、決して一般化できないコンテクストの持つ意味を把握することが、ある一つの建築を成立させることに結びつきます。
ですから、本来コンテクストはそれぞれ特有な条件下にあり、それに対して結論をあらかじめ一般化に向けて想定するような建築的な論旨でもって、分析することはいかなる意義ももたないことになります。
現在まで私は30年ほどの間、まずもって往々にして規範化されやすい建築の傾向に対して、これに反動する立場をとり続け、ほぼ同じようなモデルを世界各地に押し付けるインターナショナル・スタイルに反対してきました。皆さんご存知のように、世界が均質化されるなかで、同じようなプログラムが各国にばらまかれ、しばしばこれらの建物は、同じ国際的な設計会社が似たような設計をしていて、それらがあらゆる大陸に導入されています。
ですから建築というものは、第一に他の建物との差異化を図ることであり、そして建築それ自体の自律性を目指すことと考えて、こうした現状に正確に対応することであります。世界の均質化という傾向の、少々盲目的な状況において必要なのは、ある特定の国の、ある都市の一部をなす地区の深遠な特性、その文化的な固有性というものを把握することに他なりません。だいいち、私たちの感性までもが規格化される必要はないのですから。そこでその建築は、自らの固有性を体現し、他に例の無いもの、そこに唯ひとつ可能な方向に向かうことになります。
ですから、設計を始めるときには、全体像がまだ見えないものとして、それが実際問題として、どのようなタイポロジーを持つかも解らず、それがどんな風貌を持つかも知りえない、そうした建築を目指すことになります。それ故に、すべてのプロジェクトはコンテクストの分析から始まります。
そして、私が心底から信じていることは、建築にとっての現代性“モデルニテ"を示すべきいくつかのパラメーターの中でも重要なことの一つは、建築それ自体にのみ関心を向けるのではなく、その建築が建てられる場所、敷地の意味するものを掘り下げるべきであり、そこにある歴史的な積層状況を充分に考慮するべき強い意志を持てるかどうかだと思われます。そこで、こうした私のアプローチからコンテクスト主義者といったレッテルを貼る人もいます。つまり私はコンセプチュアルであり、コンテクスチュアルな建築家ということになります。私には、このコンテクストという視点を軽視することはできないのです。私の友人であるレム・コールハースが、ある席で“コンテクストを無視せよ”と語ったときに、すぐさま“コンテクストを愛せ”と言って少々反論したものでした。
私にとって、こうした理論的な設計態度はかつて無いほどに擁護しうるものと思っていて、今までとはまったく異なった方法で建築を思考することができます。もし、建築にとってその形態表現が重要なものであると判断するのならば、その形態は分析とコンセプトが定位された後に決定されることになります。現に私は建築の形態について非常に興味を持っていますが、その形態を想起するのは、あくまでも可能な限り時間を経てからです。つまり、私は建築家というものは、ある制約の中で生きていると思っているのです。
なぜなら、建築家に声がかかるのは、一般的にはあるプログラムに従って何かをよりよくしたいために、社会性を持った物体を建てるためです。何の条件もないところに建築は生まれてきません。ある建物をつくるのは特定の利用目的のためで、建築家を探すのはその建物が利用に際して使いやすいものであり、且つ時の経過にも充分耐え得るように確実に建造されることを考えているからでしょう。また、建築家に計画を依頼するのは、その建物が一定の予算と工期を守って完成するという保証を得るためでもあります。
私自身がしばしば口にすることなのですが、いま現在建築家であることの真意は、かつてまだ一度も問われたことのない質問に答えることなのです。たった一つの依頼されることの無い点とは、後々それが文化的証人となりうる建築物をつくること、ある種の感動を創出する建物を設計するという要請です。現実に、プログラムにおいてもクライアントとの真摯な関係においても、こうした最も基本的な要求はまれにしか死さありません。通常はありきたりの諸問題を解決する計画案を頼まれるだけです。
そこで、各プロジェクトにおいて、あれよりもこの方式だと思われる存在理由を常に見出す努力をしています。それもかなり皮肉な方法をとっています。ブレーンストーミングの繰り返しや事務所内での分析において、しばしば私は絶対にやってはいけない手法のリストをつくります。それと同時にやるべきだと考えられる解決策のリストもつくります。こうした考えのもとに歴史的、文化的な次元を充分に反映させたアイディアを探します。
ことある毎に、私は現代性“モデルニテ”と歴史との関係について語ってきました。私から見ると、この歴史と現代性というものは極めて親しいものなのです。歴史にわれわれが興味を持つのは、歴史は異なった現代性の継続に他ならないということ、そしてその時代の証人としての文化的な体勢の推移のありようであり、すでに故人となった人々の感性の遺言としてなのです。われわれが都市のことを石の本と表現するのは、まさにこのことを示しています。ある都市は例外なくそれらの集積であり、地層形成にも似たものによって育成されてきたのです。われわれが注視するのは、あくまでもこうした過去の証言の連鎖に対してであって、大文字の歴史、あるいは歴史への偏愛といった口実で、もうすでに存在していないものを、現在の私たちに感じさせようとして、過去の遺産の一頁を再現しようとする有害な建築家や理論化たちではないのです。
毎回、こうした試みはエセ建築に陥るか、いわゆるネオが付いたスタイルになるか、建築技術がまったく異なった時代に、その経済的な基盤も大きく変化した状況で、そもそも実現不可能な建築様式を望むことになってしまうのです。ですから、私は今でもそうなのですが、昔からいわゆるポスト・モダニスト、模倣主義者、歴史主義者の建築に敢然としてイデオロギーの面から対決してきました。もし歴史というものを本当に理解するならば、われわれの生きている時代の現実こそを、真っ向から受け止めるべきで、その時代の証人となる自覚が必要となります。
このように過去のすでに存在している諸建築を顧慮することは、今日の建築を遵守することによってのみ可能なことなのです。つまり、現にそこにある建築物の意義を十全に探ることになります。
私にとって現代性とは、あくまでも生起しているものなのです。通常思われているような意味でのある歴史的な一時期を指す概念ではないのです。この現代性について話すと、一般的には20世紀の20年代、30年代を想定しますが、この時代にモダンと判定されたことは、もうすでに70年、80年も前のことであり、もはや現在では通用しないものなのです。それらが生まれた背景を支配した諸条件がすっかり変わってしまったからです。
20世紀はテクノロジーの進展によって輝かしいものと思われました。科学分野やイメージの世界での一連の発見、発明に人々は心奪われました。それにある時期アートの世界で起こったように、建築のすべてを疑問に付し、過去の遺産を白紙撤回し、あらゆるものすべてを再創造すべきであるし、それが可能であると信じられてきました。こうした状況のなかで、ある都市やその一部を形成する地区において、まったく既存部分を顧みずに、むしろそれを否定するような形で、建築的オブジェが意味もなく自己主張するような計画が数多くなされてきました。
ひきかえて、今日の現代性(モデルニテ)には、あるパラドックスが存在しています。特に都市という領域においては、もはや既存部分を充分に考慮してからでないと、その将来像すらも想定できません。つまり、20世紀に行われてきたようには、もはや都市を計画できないし、そうすべきでもないということです。現在では、大規模で期限を定めた形での都市計画は、すでにその有効性とその限界性が見極められたことにより、まったく過去の設計態度だと言いきれます。

私によれば、ある都市が成長、熟成するのは、その一部を新たに改変することによったり、機能を変換することによったり、付加すること、あるいは部分を撤去すること、もしくはその部分を発揚させる手法によってのみ可能であると考えられます。ある地域全体をたった一人の建築家、もしくは一つのチームのみがデザインすると言うような行為が成立するとは、もはや私にはまったく考えられません。私がかなりひんぱんに言っていることなのですが、ある建築家が都市をデザインする、あるいはその一部でも計画するといった思い上がりは、あたかもある作家が図書館の蔵書すべてを書き上げるといった自惚れに匹敵すると考えられます。
ですから、機会あるごとに、その都市的な発展状況の諸問題に対峙して、可能な新たな戦略に配慮しなければならないのです。こうした新しい戦略、新しい態度には、良きにつけ悪きにつけ、かつて行われたことを注視することが今日、急務なのです。何故なら、われわれは建築のプログラムに関しても、また経済的な面からも規格化されようとしている世界に生きていますが、既存の建築物や既存地区のリフォームあるいは改良計画といった場面で、しばしばそれらの固有性や特異性もしくはある種の変則性が依拠するものと遭遇するからです。

私は低所得者向けの集合住宅に特に興味があるのですが、いま仮に、床面積のより広いものを建てようとし、通例より天井の高いものを指向したり、より質実なものを想定するといった例を考えると、集合住宅やその他一般の公共建築の通常のプログラム規格からやや外れた計画を目指す場合には、たとえば別の用途、工業施設や役所向けに建てられた既存の建築物をリサイクルするようなときに、往々にして今までとまったく別のアプローチで、これらを豹変させることができます。
私がこれまで述べてきた20世紀の現代性(モデルニテ)は、表現の純粋性、構造の表現、理にかなった構造形式といった概念にとらわれてきました。こうした現代性は、常に新しいものを踏査することと結びついていました。実際のところ、20世紀は新しい形態、新しい空間を試み、創出してきました。現在では、こうした事象をわれわれはそれほど注目しないようになりました。
われわれは単に飛行機が空を飛ぶことでは驚かないし、地球の果てにいる誰かに電話できるとしても、もし仮にわれわれが驚かされるとしたら、それはもろもろの事象が影響しあったその結果のみに対してでありましょう。
建築についても、似たような性質のことが起きていると思っています。現在ではテクノロジーの観点から、ある建物の構造体をあからさまに表現することは、直ちに新たな感動をよび起こすものに繋がらないということです。むしろ、より感動的だと想定できるのは、それがいかにして解決できたかを想像できないような形で、ある建築家が内包する所与の問題をすべて整理し達成したときでしょう。それは技術(テクニック)と物質(マチエール)を完全に支配下におさめた時にのみ可能なものだからです。
そこで、私が度々語っているのは、今日の現代性を特徴づけているシンプル性/複雑性という対立項です。最先端技術を用いた例を見れば、そこでは用いた技術の存在性を表現しないで、むしろ消去させる方向に向かっているということです。あらゆる分野で、テクノロジー製品はますますミニチュア化していき、用いられる素材もより適性の高い物質になっているのは事実です。
例えば、ここでガラスについて述べれば、液晶パネルをはさみ、電流を通せば不透明に変わる製品もあり、現在でも高い断熱性を持っているガラスもやがて、内部に小さな気泡を封じ込めた驚異的な断熱性能のガラスに生まれ変わることでしょう。あらゆる面でこうしたことが進んでいて、今日の建築は構造部材と諸設備系の部材とは、相互にきわめて複雑に絡み合っています。壁面の窓からのみ、その建物が完全に空調が行われ、人工照明と自然光をさえぎるシステムを備えていることを知ることができるのです。ですから、建物を構成するさまざまな基本部材の物性がかつてより複雑化し、多様化しているこの事実は、建築を新たな別の次元へと導くでしょう。
私が思うには、建築の世界にもダーウィン流の進化論が存在するということです。つまり、われわれは、最小の物質によって最大の効果を持った建築をつくりあげるという試行を常にしてきたということです。今日このことは、ますます明白になってきています。
それではここで、この材料かあるいは別の材料かという選択、もしくはこの技術か異なった技術を用いるかという選択肢は、いかにテクノロジーの進展と結びついているかを考えてみましょう。
だからと言って、最新の開発素材のみで構成された建築を私が激賞しているわけでもないのです。私がここまで話してきた現代性とは、最新の諸々の情報と古くからもたらされてきた、諸証拠とを結び付けることなのです。例えば、ここ10年間に出現した新語のみによって文章を書くことはありえません。現代的なテクストとは、現に活用されているわれわれの言語のすべてを統合しつつ生じるものであり、このことは建築についてもまったく同じように考えることができます。それは先程から述べてきた分析、解析という概念に結びつくことです。私が提案してきた建築とは、意義があると判断された現代性のみを組み入れたものなのです。
こうした設計時の姿勢には、またもう一つの恩恵があります。つまり、もはや技術そのものが正面に出ないというその瞬間から、注意力を他の事に向けることが出来るということです。それはより感性に近づく方向に、よりシンボリックな次元へと向かわせます。
今日、この現代性“モデルニテ”という主要なテーマは、建築の本来持つべき深慮された本質に関わるものです。これは直ちに物質と光という難問に直面します。物質と光との関連性という問題です。この物質と光という問題群は今日、人類の発達における極めて重要な科学的、哲学的なさまざまな問いに呼応しております。われわれは常に、物質の内部で何が起きているのかを疑問にしてきました。現在、この物質と光との関連はどうなっているのかを探っています。それはいわゆる光子フォトンの存在です。ある日、このフォトンの塊を発見したら、おそらく少なくとも一つは存在するでしょうが、光が真の物質であることの証明になります。光がエネルギーであるということの定義のあとを受けて、光が物質であるということがおそらく理解されるでしょう。

こうしたことから、空間についてのアプローチも異なった方向に向かうでしょう。20世紀はもちろん、20世紀以前にも建築をつくるということは、空間をつくることと考えられてきたのです。この空間という言葉の使い古された陳腐な意味においてはまさしくそうなのですが、こうした新しい条件を加味するとある一つの変化が起こります。つまり空間の中に建てること、時空間の連続した空間体を建てるという意識をより一層強く持てることでしょう。一見たいして変わってないようにみえますが、特に知的なレベルで、また戦略的な面からも、これは今までとは大きく違った設計態度だと私は確信しています。
何ひとつ新しい形式の空間創出はあり得ないが、われわれはもはや建築がそれ自体完結したミクロな世界ではありえないことを知っていて、この建築はまさしくこのわれわれの世界に帰属していることを了解しているからであります。

アラブ世界研究所 内部(パリ、1987)
©The Sankei Shimbun

リヨン・オペラ座(1993)
©The Sankei Shimbun

カルティエ財団(パリ、1995)
©The Sankei Shimbun

ルツェルン文化センター(スイス、1999)
©Atelier Jean Nouvel, photo:Philippe Ruault

電通 汐留本社ビル(東京, 2001)
©The Sankei Shimbun