第7回

1995年

絵画部門

Matta

マッタ

 人の心の意識下にあるもの、目には見えないものを幻想的、SF的に、ダイナミックに表現する。そのスタイルを自ら「心理学的形態学」あるいは「インスケープ(心象風景)」と名づけている。その画面からは一種混沌としたエネルギーの横溢が伝わってくる。
  1911年、チリのサンチャゴの名家に生まれ、建築を学ぶ。34年パリに渡り、ル・コルビュジエの事務所で仕事をする。スペインに旅した時に、詩人ガルシア・ロルカと知り合い、そしてダリを知り、パリではアンドレ・ブルトンに会い、シュールレアリスト運動に参加、画家としてのスタートをきった。ピカソの「ゲルニカ」を見て感動、ピカソやミロと知り合い、ダダイズムの巨匠マルセル・デュシャンと親交を結んだ。39年、第二次大戦の戦火を避けてニューヨークに移り住み、ゴーキーやマザウェルなどのアメリカの画家たちに影響を与える。48年以降はヨーロッパに定住、フランス国籍を取得している。
  「私のアイデンティティには、チリ、ヨーロッパ、アメリカと3つの側面がある」という。長い多彩な経歴は、マッタに触れずして現代美術の歴史を語ることはできないと言われるほどである。97年、フジテレビ・ニッポン放送本社ビルのフォーラムで回顧展が開催された。

略歴

  1985年、日本で初めてマッタの個展がフジテレビギャラリーで開かれた。「最後のシュルレアリスト」の高さ3メートル、幅7メートルの大画面に横溢するエネルギーが圧倒的だった。
テーブルや椅子などの家具や機械の部品が散乱するなか、白い電球のフィラメントが渦巻いて走り、妖怪めいた人物が乱舞跳梁し、奇怪な生命体がうごめく。強靭かつしなやかな線が錯綜する、即興的で流動的な画面では、自然の要素までが解体されて、さまよう。この理性のおよばぬ混沌とした迷宮は審美的に完結されることなく、未来を志向して、原始的な生の活力への憧れがうずいている。宇宙的なスケールの黙示録的大画面は、ほとんど幻覚をみるようであり、まだかたちを成さぬ得体の知れぬものたちの生成から変化、消滅から蘇生にいたる過程に立ち合っているかのようだ。
  アーティストとしてはマッタだけで通しているが、フルネームはロベルト・セバスチャン・マッタ・エチャウレン。1911年、南米チリの首都サンティアゴ生まれ。数カ国語を操り、なかでも精神活動と不可分の言語としてスペイン語、フランス語、英語をあげる。「チリに生まれたのは幸運だった。だからこそ目がヨーロッパにも北アメリカにも向き、ある国だけに属するという抑圧から解放された。私のアイデンティティにはチリとヨーロッパ、北アメリカの3つの側面、顔がある。ナショナルであり過ぎることと、私を保つこととは相容れない」と言う。真の意味でインターナショナルなのである。語学の天才だから、造語を編み出すのも、警句に満ちた言語表現も巧みで、その一端は、『炎の星雲』、『露の火』、『眩暈の懐胎』、『飛翔する空』などの自作につけたタイトルからもうかがえる。
  富裕な牧場主の子として生まれたマッタは、子供時代は絵にはまったく興味がなく、サンティアゴ・カトリック大学で建築を修めた後、1933年、故国とも家族とも決別し、建築への関心からフランス、イタリア、スペイン、ドイツとヨーロッパを放浪、1934-36年、ル・コルビュジエのパリ事務所に製図担当として勤めた。1937年、ピカソの『ゲルニカ』が初公開されていたパリ万国博のスペイン館で働き、ピカソやミロと知り合い、ダダイスムの巨匠マルセル・デュシャンとも親交を結んだ。デュシャンは若きマッタを「若い世代のなかで最も深淵な画家」と評した。スペインで詩人ガルシア・ロルカと知り合い、ロルカからダリに紹介された。ダリはパリでマッタをシュルレアリスムの主唱者で詩人のアンドレ・ブルトンに引き会わせた。無意識のイメージを自動的に表わすシュルレアリストたちのオートマティスムという手法に、マッタはたちまち共鳴した。1938年には、将来を暗示する最初の油彩画──絶望、苦悩、欲望の『心理学的形態学』を制作している。
  第二次世界大戦中の1939年、マッタは、ブルトン、マックス・エルンスト、イヴ・タンギー、アンドレ・マッソンら多くのヨーロッパのアーティストたちと同様に、ニューヨークへ亡命した。当時のニューヨークは、ヨーロッパとアメリカのふたつの美学的伝統の出合いの場であった。パリの最前衛に精通し、シュルレアリスムにエロティスムとユーモア、新しい物理学を融合させたマッタは、アメリカの作家たちに歓迎された。と同時に、絵具の偶然のしたたりを生かした彼のドリッピングの手法は、やがてアメリカに抽象表現主義の花を咲かせるアーシル・ゴーキー、ジャクソン・ポロック、ロバート・マザウェルらに深い影響を与えた。
  マッタのシュルレアリスムへの貢献について、デュシャンは「それまでの芸術の世界には未知であった空間の領域を発見したことである」と評価している。それは宇宙的な迷宮の空間でもあった。
  1948年以降はヨーロッパに定住、フランス国籍を取得している。1957年には、ニューヨーク近代美術館で回顧展が開かれた。
  前記の日本での初の個展に続き、1994年に、同じシュルレアリスムの僚友マッソンとの二人展が横浜美術館で、世界文化賞を受賞した翌1997年には東京、台場のフジテレビ・ニッポン放送本社ビルのフォーラムと球体展望室で回顧展が開かれた。パリから東京を訪れるたびに「田舎から来てバビロンにまぎれこんだようだ」という。近年はコンピューター・グラフィックスにも深い関心を寄せ、その創作欲は衰えをしらぬかのようである。


松村寿雄
 
2002年11月23日、ローマ近郊の病院にて逝去

略歴 年表

1911
11月11日、チリ、サンチャゴで生まれる
本名ロベルト・セバスチャン・アントニオ・エチャウレン
1932
サンチャゴ、カトリック大学建築課程博士号を修得
1934-36
船員となり、ヨーロッパを旅した後パリに移り、ル コルビュジェの事務所で働く
1935
マドリードでフェデリコ・ガルシア・ロルカに会う
1936-37
ロルカとダリを介してアンドレ・ブルトンと知り合い、シュールレアリスム運動に参加
1938
パリでマルセル・デュシャンと親交をもつ。国際シュールレアリト展に参加(パリ、ボザール画廊)
1939
デュシャン、イヴ・タンギーと共にニューヨークに移る
1942
初個展「地は人」(ニューヨーク、ピエール・マティス画廊)
1948
ヨーロッパに戻る。シュールレアリスム・グループから除名、ローマに移る
1954
パリに戻りアレクサンダー・ヨラスと共同制作開始
1957
ニューヨーク近代美術館で初回顧展
1962
スペイン内戦に着想を得た「質問」でマルツォット賞を受賞
1962-63
初めてキューバを訪れる
1968
ハバナで文化会議の議長役をつとめる。パリ市立近代美術館で回顧展
1970
アジェンデ大統領の招きで、彼の就任式に出席のためチリを訪問
ベルリン国立美術館で回顧展
1971
パリ、国立近代美術館で回顧展
1977-78
ロンドン、コヴェントガーデン歌劇場でモーツァルトの「魔笛」の舞台衣装デザインを手がける
1977-80
英国王立美術学校客員教授
1982
ニカラグアでアメリカ大陸人会議にガルシア マルケスらと出席
1985
東京、フジテレビギャラリーで日本での初個展
1986
東京、原美術館でドローイング展
1987
作品集第1巻『マッタ形態学的対話』を出版
1992
アストゥリアス王子賞(スペイン)
1994
横浜美術館で「アンドレ マッソン&ロベルト マッタ展」
1995
高松宮殿下記念世界文化賞・絵画部門受賞
1997
東京、フジテレビ・ニッポン放送本社ビルで「マッタ展」
2002
11月23日、ローマ近郊の病院で逝去

主な作品

1941
「生命を聞く」(ニューヨーク近代美術館)
1943-45
「ハート プレイヤー」(いわき市立美術館)
1945
「X-Spaceと自我」(ポンピドー センター国立近代美術館)
1951-52
「バラは美しい」「吸血鬼の国」
1956
「3つの世界の疑念」(ユネスコ本部壁面)
1958
「ジャミラの問い」
1978-80
「レオナルダンド ヴィンチ」「マインド カインド」
1987
「イタリー マッタ」
1992-93
「意思のごとく宇宙は作られる」「火は意識の深淵」
  • 自宅にて

  • 自宅にて

  • われわれの知人の詩人

  • 時を照らせ

自宅にて
©The Sankei Shimbun, 1996

自宅にて
©The Sankei Shimbun, 1996

われわれの知人の詩人 1944-45年

時を照らせ(1976)