第1回
1989年
彫刻部門
Umberto Mastroianni
ウンベルト・マストロヤンニ
「平和記念碑」「イタリア・レジスタンスに捧げる記念碑」などイタリアの主要都市にある平和記念像はほとんどマストロヤンニの手になる。比類のない迫力と凄まじいまでの平和への希求がほとばしっている。第2次大戦後のイタリアのネオ・ルネサンスの立役者の一人。
1910年、ローマに近いフォンタナ・リリ生まれ。14歳でローマに出て叔父のドメニコ工房に入り、10代で早くも練達した技術を身につけたアルティザンの世界の住人であった。20代には各地の展覧会に出品し、古代エトルスク美術の伝統を汲む具象彫刻作家となっていた。
大戦中のパルチザンとしての体験が作風を一変させる。対象はデフォルメされ、運動と力の感覚がみなぎり、メカニズムへの志向が顕著になり、平和への祈りが終生のテーマとなった。高さ20メートル、幅18メートル、使用したブロンズ量25トンの大作「イタリア・レジスタンスに捧げる記念碑」(1964-69)は人々の不撓のエネルギーを象徴し、再び巡ってきた平和を謳歌しているようである。
1985年のヘンリー・ムーア大賞展に「ヒロシマ」を招待出品し大賞を受賞、作品は箱根・彫刻の森美術館に展示されている。1998年死去。
略歴
「面積350平方メートル、高さ20メートル、幅18メートル、使用したブロンズの量25トン。これがクーネオで決起したレジスタンス運動に捧げる私のモニュメントである」と、ウンベルト・マストロヤンニは記している。『イタリア・レジスタンスに捧げる記念碑』は、このアルプスの麓の町から依頼を受け、1964年から5年がかりで完成させたものである。ピラミッド型を成すブロンズ塊が、遠くのアルプスの山並みに拮抗している。先のとがった無数の柱が角のようにはえ出ているさまが、人々の不撓のエネルギーを象徴し、ふたたびめぐりきた平和を謳歌しているかのようだ。第二次世界大戦にはマストロヤンニ自身もレジスタンス運動に身を投じた。その満腔の思いを、この大作に込めたのだろう。比類ない迫力と、あたりを覆う静けさ。イタリアの美術評論家のジュリオ・カルロ・アルガンは、このモニュメントを「レジスタンスの詩」と称えた。
マストロヤンニは1985年、美ヶ原高原美術館での第4回ヘンリー・ムーア大賞展に『ヒロシマ』を招待出品、特別優秀賞を受賞した。クーネオの記念碑には具体的なものを暗示するフォルムはないが、『ヒロシマ』には何人かの人間がひしめいている。焼け爛れた熔岩のような肌合い、磨かれた部分の放つ閃光が、広島の一瞬の悲劇を想起させる。これらの例からも明らかなように、マストロヤンニの抽象風の形態には、人やものや動物が透けてみえる。彼の芸術は具象と抽象を併せ呑むところに、力強くそびえ立つ観がある。
マストロヤンニはすでに1930年代、マリノ・マリーニ、ジャコモ・マンズー、エミリオ・グレコ、ペリクレ・ファッツィーニらと並ぶ具象彫刻界の精鋭だった。古代エトルスク美術の伝統を汲む繊細な作風だった。この具象の道から一転させたのが、大戦中のパルティザンとしての体験だった。大戦後、彼らはそろって30~40歳代の円熟期を迎え、ヴェネツィア・ビエンナーレなどの国際展に参加、受賞を重ね、その活躍ぶりはイタリア彫刻のネオ・ルネサンスと喧伝されたものである。ファシズム時代のイタリアの芸術は、ナチズムの場合とは違い、抑圧の対象にはならなかったが、一般的な文化の状況は官憲に対し用心深く、古典主義に傾いていた。戦後の価値の転換期にあって、マンズー、グレコ、ファッツィーニらは自己の作風を深め、マリーニは次第に抽象化を進めていくなかで、マストロヤンニの変貌は特筆されるべきものだった。穏健な具象的表現に飽き足らず、時代と自己の精神の葛藤を表す術を模索しているマストロヤンニに示唆を与えたのが、ウンベルト・ボッチョーニらの未来派の思想だった。近代文明の活力、スピードの美、運動のダイナミズムを芸術に反映させるのが、この派のモットーだった。以来、マストロヤンニの作品には運動と力の感覚がみなぎり、メカニズムへの志向が顕著になった。そして、イタリア各地のレジスタンス記念碑の制作へと結実していく。1958年、ヴェネツィア・ビエンナーレでの彫刻大賞受賞などを契機に、その国際的声価も定まった。
マストロヤンニは若いころから練達の技術を身につけていた。1910年ローマに近いフォンタナ・リリに生まれ、14歳でローマに出て、叔父のドメニコの工房に入り浸っていた。すでに10代にしてアルティザンの世界の住人であり、塑造からブロンズの技法はもとより、石、木、鉄などの実材もこなし、さらにテラコッタや金銀細工にもたけた多彩ぶりであった。1926年、一家でトリノに移住して数年後には、早くも展覧会に出品しはじめている。すでに戦前に具象彫刻家として一家を成していたのである。
「教師は、若いアーティストのもつ本能を窒息させてはならない。自分の個性を相手に強制してはならない」を信条とするマストロヤンニの教育者としての側面も重要である。同世代の他の彫刻家と異なって、単なる具象表現にとどまらなかったマストロヤンニは、戦後の若い世代に、具象にとらわれない自由な表現の道を示し得た。1957年以来、ボローニャ、ナポリ、ローマの各アカデミアで指導にあたり、多くの作家を世に送り出した。
マリーニ、マンズーやグレコに比べて日本で紹介される機会は少なかったが、前記の美ヶ原高原美術館での『ヒロシマ』の受賞に続き、世界文化賞を受賞、さらに翌1990年には彫刻の森美術館で回顧展が開かれている。
松村寿雄
1998年2月23日、ローマ近郊で死去。
略歴 年表
主な作品
イタリア・レジスタンス記念碑(クーニョ)
平和記念碑(カッシーノ)
パルチザン記念碑(ウルビーノ)
ヒロシマ(箱根・彫刻の森美術館)
戦い(ローマ国立現代美術館)
人物像(グッゲンハイム美術館、ニューヨーク)
闘牛(クレラーミュラー美術館、オランダ)
女性像(現代美術館、パリ)
ローマ・オペラ「火の鳥」(ストラヴィンスキー作曲)の舞台装置と衣装。
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アトリエにて
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ヒロシマ
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イタリア・レジスタンスに捧げる記念碑