第4回
1992年
演劇・映像部門
Akira Kurosawa
黒澤 明
ヒューマニズム溢れるストーリーと卓越した映像美で、常に観客を魅了する作品群を送り出し、日本映画の水準の高さを世界にアピールした巨匠である。
1910年、東京に生まれる。最初は画家をめざし、二科展にも入選したほどだったが、36年、現・東宝に入社して助監督となり、山本嘉次郎監督のもとで「馬」等の制作に携わる。43年、監督第一作「姿三四郎」がアクション表現のうまさで注目され、50年に「羅生門」がヴェネチア国際映画祭グランプリ、アカデミー賞最優秀外国語映画賞を受賞。一躍、その名を世界に知らしめた。
「生きる」(1952)、「七人の侍」(1954)、「蜘蛛巣城」(1957)など名作を次々に発表、日本映画の黄金期を作り出す。その後も、「用心棒」(1961)、「椿三十郎」(1962)、「天国と地獄」(1963)、「赤ひげ」(1965)、「どですかでん」(1970)などを制作した。晩年もその創作意欲は衰えず、「影武者」(1980)、「乱」(1985)、「夢」(1990)、「八月の狂詩曲」(1991)を発表、30作目の「まあだだよ」(1992)が遺作になった。1998年、死去。
略歴
「世界のクロサワ」が1998年、紅葉に彩られる直前の秋に逝った。9月6日死去、88歳だった。黒澤映画は映画という世界共通の広場で、国境や民族、文化の壁を超えて共感を呼び続けた。一足早く逝った同じ世界文化賞受賞者のマルセル・カルネはかつて「クロサワは絵を描くように撮る」と語り、フェデリコ・フェリーニは「私の恩師」と語っていた。泉下の3人は、今、映画談義に花を咲かせているに違いない。
黒澤明は1910年、東京に生まれた。小学校時代に出会った美術の立川精治先生を「生涯の恩師」と語っている。黒澤が描いた絵が個性的すぎてみんなが笑ったが、立川先生はその絵をほめた。それですっかり絵が好きになり、二科展に入選する。しかし、「絵では、言いたいことを全部言い切れないところがあった」とあきらめ、1936年、東宝の前身、ピー・シー・エル映画製作所に入社して山本嘉次郎監督の助監督になる。
その山本監督が第二の恩師となる。黒澤助監督に脚本執筆からフィルムの編集、ロケーションの会計までやらせた。映画づくりの基本をみっちりたたき込まれ、「世界のクロサワ」へと飛躍する原動力になる。亡くなる直前まで、「ヤマさん」と親しみを込めて師匠について語っていたという。
戦前の『姿三四郎』(1943)で監督デビュー。『酔いどれ天使』(1948)は個性的な俳優、三船敏郎との15作品におよぶコンビの第一作となった。『羅生門』(1950)は芥川龍之介の小説『薮の中』を原作とした画期的な大作だった。薮の中で侍(森雅之)が殺される。盗賊(三船)、侍の妻(京マチ子)、目撃者のきこり(志村喬)の証言はまちまちで、真実は薮の中……。猛獣のように森を駆け回る盗賊、侍の妻と盗賊が太陽を背にしてのラブシーンなど黒澤演出は冴えわたり、ヴェネツィア国際映画祭でグランプリを受賞。「世界のクロサワ」として注目されるきっかけになった。
黒澤の偉大さは芸術作品の常として、いつ見ても新鮮さを失わずに感動を与え続ける点にある。『生きる』(1952)は、がんを宣告された市役所の市民課長(志村)が残り少ない人生をひたむきに生きる姿を描いた。生きることの尊さ、愛することの意味、さらに官僚批判……は、今も生き生きと人の心をとらえて離さない。この映画では、主人公の市民課長にセリフらしいセリフがない。能に代表される日本文化に固有の間が存分に生かされていた。無言のうちに雄弁に語らせる黒澤魔術といっていい。
不朽の名作『七人の侍』(1954)は収穫期に野武士に襲われる村が、侍を雇って敢然と戦いを挑む。土砂降りのなかでの決闘シーン、侍ひとりひとりの個性的描写、素朴な味の農民群像……。リアリズムに徹した映像は、映画の魅力を存分に堪能させてくれた。戦いが終わって侍のリーダー、勘兵衛がつぶやく。「勝ったのは、あの百姓たちだ……」。黒澤の温かいヒューマニズムが流れていた。
黒澤ヒューマニズムは『赤ひげ』(1965)で頂点に達する。江戸も末の療養所。赤いひげをはやした所長(三船)にこう言わせる。「これまで政治が貧困と無知に対して何かしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしておいてはならぬという法令が一度でも出たことがあるか」。こうしたセリフのひとつひとつに観客は衝撃を受けつつ感動する。そして小道具のリアリズムは赤ひげの部屋の薬草棚に象徴的に表れ、画面に写らない引き出しの中まで仕上げがいき届いていた。
このほか『隠し砦の三悪人』(1958)、『悪い奴ほどよく眠る』(1960)、『用心棒』(1961)、『椿三十郎』(1962)、『天国と地獄』(1963)と、娯楽性も兼ね備えた作品を次々と世に出した。しかし、『赤ひげ』以降は5年に1作と制作のペースが落ち、映画界の斜陽のなかで企画が難航した。
『影武者』(1980)はふたたび黒澤を世界の表舞台に押し出した。『乱』(1985)とともに圧倒的な映像美で観客を魅了した。『どですかでん』(1970)以降の黒澤作品はカラーとなったが、モノクローム時代の画づくりがダイナミズムや迫力に重点を置いていたのに対して、カラー作品になってからは絵画的な映像美を重んじるようになった。
1990年、80歳になった黒澤は、わずか3年間に『夢』(1990)、『八月の狂詩曲』(1991)、『まあだだよ』(1992)と立て続けに作品を発表した。この3作品には、監督が言い残しておきたいことが饒舌気味に描かれている。『まあだだよ』には少年時代に絵心を教えてくれた立川精治先生たちの匂いがたち込めていた。
かつて「一番好きな作品」をたずねると、「次に撮る作品」という答えが返ってきた。もう新作を見ることはできないが、黒澤映画は永遠に我々に語りかけてくれる。
小田孝治
1998年9月6日逝去
略歴 年表
「虎の尾を踏む男達」(主演・大河内伝次郎)が完成より7年目にして公開
第1回東京国際映画祭のオープニング作品に「乱」(主演・仲代達矢)を上映
D.W.グリフィス賞受賞
「黒澤明The Complete Akira Kurosawa」(東芝EMI)発売
9月6日逝去
主な作品
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どですかでん 1970
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「乱」監督中の黒澤明(1985)
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乱(仲代達矢、1985)
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「まあだだよ」撮影現場
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「まあだだよ」撮影現場