トップ 受賞者一覧 デイヴィッド・ホックニー

第1回

1989年

絵画部門

David Hockney

デイヴィッド・ホックニー

 写真のスナップショットの手法で切り取った日常生活の断片―プールサイド風景・友人の肖像・花・室内など澄明なアクリル絵具で描く。絵画とイラストの垣根を取り払ったようなホックニーの絵画は一世を風靡、もっとも大衆性を勝ち得たアーティストの一人である。
  1937年、イギリス中部、ヨークシャーの小さな町ブラッドフォードで生まれる。ロンドンの王立美術学校を首席で卒業。仲間たちが当時の美術界を席巻していたアメリカ抽象表現主義へ走るのを尻目に、具象表現に留まる。60年代初頭ポップアートの旗手として華やかに登場するが、自身は「伝統的な芸術家」を自認する。
63年、はじめて訪れた南カリフォルニアの眩い陽光と色彩、自由な生活はホックニーのイマジネーションをかき立て、カルフォルニアが制作拠点となってきた。
  71年、日本を訪れ帰国後に描いた「ウェザー(天候)シリーズ」の「雪」や「雨」、「富士山と花」には、浮世絵や日本画の影響が見てとれる。近年の絵画に見られる複数の視点や遠近法の採用、レーザー・コピー、フォト・コピーの応用など、その好奇心と探究心は衰えをしらない。

略歴

  写真のスナップショットの手法で切り取られて、澄明なアクリル絵具で描かれた日常生活の断片──プールサイド風景、シャワーを浴びる青年、富裕なビバリー・ヒルズの住人たちの閑雅な生活、親しい友人を描いた肖像画。いずれも同時代の画家たちが目を向けなかった題材だ。南カリフォルニアの陽光と色彩、自由な生活は、絵画とイラストとの垣根を取り払ったかのようなホックニー・スタイルを生み出して、1960年代の若者文化の興隆を背景に一世を風靡、彼を時代の寵児にのしあげた。
  デイヴィッド・ホックニーはイギリス北東部ヨークシャー州の「暗い町」ブラッドフォードに生まれ育ち、19歳で初めてロンドンに出た。ロンドンの王立美術学校を首席で卒業したが、すでに在学中、同窓のロン・キタイは、骸骨を描いた素描を見せられてホックニーの並々ならぬ才能を認め、ただちにそれを購入したという。学生時代に手がけていたエッチング・シリーズ『放蕩息子の遍歴』のうちの数点を当時、ニューヨーク近代美術館が購入している。仲間たちが抽象表現主義へと走るのを尻目に、具象表現にとどまり、内容と形式のバランスを心がけた。「伝統的な芸術家」を自認する。
  1960年代初頭、ホックニーはまず「ポップ・アートの旗手」として登場した。しかし、アメリカのポップ・アートが巨大な商業主義を基盤としたのに対し、常に家族や友人や身の回りのものをテーマとしてきたホックニーは、ポップ・アーティストとしての位置づけに異議を唱えている。
  ホックニーは、イギリス北方の資質をもった南志向の画家といえよう。暗鬱で色彩に乏しいブラッドフォードからロンドンへ。そして1963年、陽光眩いカリフォルニアを初めて訪れたときの興奮は、半生を綴った自伝『ホックニーが語るホックニー』のなかで鮮明に語られている。その後、ロンドンへ戻ったりパリに住んだりしたが、しだいにロサンゼルスに定住するようになった。その理由は苦渋に満ちたものであったにせよ、カリフォルニアの陽光と、それがつくる濃い影は、ホックニーのイマジネーションをかき立ててやまず、彼の創造を促す源泉となってきた。カリフォルニアを制作拠点として30年以上、常に時代の先端を歩み続けている。
  版画やドローイングも油彩に劣らず注目を浴び、写真やドローイングを資料に用いた、家族や友人など身近な人たちの肖像画でも成功を収めている。若いデザイナーのカップルと愛猫を描いた『クラーク夫妻と猫のパーシー』(1970-71)はロンドンのテート・ギャラリーで最も愛されている絵画のひとつである。舞台デザインなどにも果敢な実験を試み、グラインドボーン・オペラにおけるストラヴィンスキーの『放蕩息子の遍歴』(1975)やモーツァルトの『魔笛』(1978)の舞台装置は話題を呼んだ。
  また、キュビスムの真の理解者を自認するホックニーは、ピカソとの出会いにより、重層する時間と複数の視点をもつ新しい物語性の地平、ナラティブ・キュビスムを切り開く。さまざまな視点から撮影した写真を組み合わせるフォト・コラージュ、ムーヴィング・フォーカス・シリーズ、近年の絵画にみられる逆遠近法や複数の視点の採用、フォト・コピー、レーザー・コピーの応用など、その好奇心と探求心は衰えをしらない。版画においても、あらゆる技法を試み、おなじみのプール風景の版画版ともいうべき『ペーパー・プール』をニューヨークのケネス・タイラー版画工房で制作している。パルプによる紙作りまで自ら手がけており、ペインティングの技法をも融合した版画としては破格の規模のものである。こうして、映像、印刷といったマスメディア時代の感性をよくとらえたホックニーは、戦後、最も大衆性を獲得したアーティストのひとりといえるだろう。
  1971年、初めて日本を訪れた際、ホテルの部屋で友人が脱ぎ捨てたシャツを描き、窓から眺めた富士山を日本画のように仕立ててみせた。帰国後の『ウェザー・シリーズ』の『雪』や『雨』には、明らかに浮世絵や日本画の影響がうかがえる。1983年の再来日のおりには、ホックニー芸術のエポックを画したフォト・コラージュ『龍安寺の石庭を歩く』を残している。


松村寿雄

略歴 年表

1937
7月9日、イギリス、ブラッドフォードに生まれる
1953-57
ブラッドフォード美術学校に学ぶ
1959-62
ロンドン・ロイヤル・カレッジ・オブ・アーツに学ぶ。卒業に際し金賞を受賞
1961
ニューヨーク旅行。ジョン・ムーアズ・リヴァプール展で受賞
1962
ベルリン旅行。第3回東京国際版画ビエンナーレ展(東京国立近代美術館、同第4回63年)に出品
1963
初個展(カスミン・ギャラリー)。エジプト旅行。パリ青年ビエンナーレで入賞。アメリカ旅行。ロサンゼルスに住み始める
1964
アメリカ各地を旅行。アイオワ大学で2ヶ月間教える。アクリルで描き始める
1965
コロラド大学で教える
1966
ロンドン、ロイヤル・コート劇場でアルフレッド・ジャリ作「ユビュ王」の舞台装置、衣装を担当
1967
35ミリカメラで写真を撮り始める。ジョン・ムーアズ・リヴァプール展で一等賞
1968
ロンドンに住む。第34回ヴェネツィア・ビエンナーレに出品
1970
ジャック・ハザン監督映画「大きな水しぶき」の撮影開始。ロンドン、ホワイト・チャペル・ギャラリーで大回顧展
1971-72
カリフォルニア、ホノルル、日本へ旅行
1973-75
パリに住み、アルド・クロメリンクと共同でエッチングを制作
1977
インド旅行。グラインドボーン・オペラ・フェスティバルでモーツァルト「魔笛」の舞台装置・衣装を担当
1978
ニューヨーク近郊、ケン・タイラーのグラフィック工房で制作。着色、圧縮パルプ紙で29のシリーズを制作する。ロサンジェルスに定住
1981
ニューヨーク、メトロポリタン・オペラでストラヴィンスキーの三部作の舞台装置と衣装をデザイン。中国へ旅行
1982
構成写真の実験を開始。パリ、ポンピドー・センターで写真展
1986
ロサンゼルス・ミュージックセンター、ワーグナーのオペラ「トリスタンとイゾルデ」の舞台美術を担当。オフィス用のカラーコピーを使ったホームメイド・プリントの制作を開始。「ホックニーのカメラワーク」展(日本各地)
1988-89
ロザンゼルス郡立美術館で大回顧展、メトロポリタン美術館(ニューヨーク)、テイト・ギャラリー(ロンドン)に巡回)
1989
高松宮殿下記念世界文化賞・絵画部門受賞
1990
サンタ・モニカの山の油彩連作を始める
1995
愛犬スタンリーとブージーの肖像画を描きはじめる
1998
大スケールの風景画を描きつづける。60枚のキャンバスを使った油彩「ビッガー・グランド・キャニオン」制作

主な作品

1963
2度目の結婚(ビクトリア・ナショナル・ギャラリー、メルボルン)
1964
アイオワ(スミソニアン研究所ハーシュホン美術館・彫刻庭園)
1966
日光浴する男(ルドゥウィック美術館、コローニュ)
1967
とても大きな水しぶき(テイト・ギャラリー、ロンドン)
1970-71
クラーク夫妻とパーシー(テイト・ギャラリー、ロンドン)
1971
芸術家の肖像-プールの二人(個人蔵)
1972
富士山と花(メトロポリタン美術館、ニューヨーク)
1975
カービー(ホーガースより)有益な知識(近代美術館、ニューヨーク)
1980
マルホランド・ドライブ:スタジオへの道(ロサンゼルス郡立美術館)
1988
大きなインテリア、ロサンゼルス(メトロポリタン美術館、ニューヨーク)
1998
「ビッガー・グランド・キャニオン」(作家蔵)
  • 日光浴をする人(1966)

  • ビガー・グランド・キャニオン(1998)

  • 自画像 1983年9月30日

  • ©David Hockney

日光浴をする人(1966)
183 x 183 cm. ©Museum Ludwig, Cologne/David Hockney

ビガー・グランド・キャニオン(1998)
(1998)206 x 739 cm. ©David Hockney

自画像 1983年9月30日
76.2 x 57.2 cm. ©David Hockney

©David Hockney