第6回
1994年
音楽部門
Henri Dutilleux
アンリ・デュティユー
ドビュッシー、ラヴェルらの跡を継ぐ、きわめてフランス的な作曲家と称される。いかなる教理、グループなどとも距離を置き、微妙なその作風は“前衛の古典”と呼ばれる。
1916年、フランスのアンジェに生まれる。画家や音楽家を排出した芸術家の家系だった。パリ国立音楽院で学ぶ。38年、カンタータ「王の指輪」でローマ大賞を受賞。42年、パリ・オペラ座の合唱指揮者に任命され、45~63年、フランス国立放送教会に勤務、音楽ディレクター等を務める。パリ国立音楽院作曲科教授。国際現代音楽教会(ISCM)のフランス支部長、ユネスコ国際音楽協議会の実行委員も務める。近年は作曲に専念している。
代表作は「ダンス・ファンタスティック」、「フルートとピアノのためのソナチネ」、妻のピアニスト、ジュヌヴィエーヴ・ジョワのために作曲したピアノ・ソナタ、第1交響曲、第2交響曲「ル・ドゥーブル」など。このほか、コメディー・フランセーズのための舞台音楽、映画音楽、ローラン・プチ・バレエ団のためにバレエ音楽「狼」も手がけた。
略歴
アンリ・デュティユーはフランスを代表する作曲家のひとりである。オリヴィエ・メシアン(1908-92)とピエール・ブーレーズをつなぐ世代であり、その音楽はドビュッシーやラヴェルら印象派が完成させたフランス近代音楽を受け継いでいる。その知性が音楽に反映して内面的なエスプリを表現し、フランスの香りに満ちている。彼のことを「美しいことを恐れない作曲家」と呼んだ評論家もいたが、この言葉は現代作曲界におけるデュティユーの位置を的確に表わしている。
デュティユーは1916年、アンジェに生まれた。父方の曾祖父は画家でドラクロワの友人、母方の祖父はオルガン奏者でサン=サーンスやフォーレの友人と、画家や音楽家を輩出した家系の出身で、生まれながらにしてフランス芸術の伝統の申し子だった。
才能は早くから見出された。初めヴァイオリンを習い、すぐピアノに転向。初めて作曲したのは8歳という。16歳でパリ音楽院に入学。ジャン・ガロンに和声を、ノエル・ガロンに対位法とフーガ、アンリ・ビュッセールに作曲、フィリップ・ゴベールに指揮、モーリス・エマニュエルに音楽史を学び、和声、対位法、フーガで1等賞を取った。1938年、弱冠22歳のときカンタータ『王の指輪』でローマ大賞を受賞する。この伝統的なフランス・アカデミスムの教育のもとに育ったことが、彼の作曲姿勢、作風に大きく影響している。
音楽の新しい潮流に敏感だが、決して時流に流されることなく、「正統派」として音楽創造の真実を追い求めてきた。「あらかじめつくられた枠組みから離れようとする形式と構造の問題」を追求した作品傾向は、ピアノのための『ソナタ』(1946-47)、『交響曲第1番』(1951)、『交響曲第2番』(1959)、ジョージ・セル指揮クリーブランド管弦楽団が初演した『メタボール』(1963-65)、チェロ協奏曲『はるかな遠い世界』(1969)などにみられる。このチェロ協奏曲はロストロポーヴィチとワシントン・ナショナル交響楽団のために作曲された。
デュティユーの作曲法は、厳選された楽器群によって出される音色の可能性を、醒めた精密性と論理を駆使しながら、ニュアンスとディテールを極度に意識して体系的に探求している。
1942年、パリ・オペラ座の合唱指揮者に就任、1945年から63年までフランス・ラジオ放送の音楽プロデューサーを務め、1953年、バレエ『狼』がローラン・プティ・バレエ団で初演された。また、パリ音楽院作曲科教授も務めた。デュティユーは「仕事というのは体操と同じで、毎日欠かさずにやることで筋肉がつく。ボードレールも言っているが、毎日続けることで資本が利子を生むように、少しずつアイディアが実り、ひとつの作品に結実する」と語っている。
仕事場と自宅は17、18世紀の古い建物が残るサン・ルイ島。パリ中央部のセーヌ川の中の島は意外なほど静寂に満ちている。デュティユーのアパートも1640年の建築。近くにはジャン=ジャック・ルソー、マリー・キュリー夫人、ワーグナーが住んだ建物がある。
1988年には東京芸術大学や桐朋学園で授業をおこない、翌89年、民音現代音楽祭でヴァイオリン協奏曲『夢の樹』が初演された際にも来日している。日本では夫人のピアニスト、ジュヌヴィエーヌ・ジョワもよく知られている。ふたりはパリ音楽院の同期生。ジョワは1952年以来たびたび来日し、日本にピアノの教え子が多い。1948年に初演された『ピアノ・ソナタ』は夫人に捧げらている。
江原和雄
略歴 年表
作曲
主な作品
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©The Sankei Shimbun
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自宅にて
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自宅にて