第8回

1996年

彫刻部門

César

セザール

 プレス機で自動車がスクラップにされる現場を目撃して「コンプレッション(圧縮)」シリーズを発表、フランス美術界にすさまじい論争を巻き起こすなど、既成概念にとらわれない造形に挑戦する。
1921年、フランスのマルセイユに生まれる。マルセイユとパリの美術学校に学ぶ。仲間だったジャコメッティの彫刻に触発され、アカデミックな彫刻から自由になろうと、街で見つけた廃物金属の可能性を探求し、50年代、くず鉄を溶接した人や動物、昆虫の彫刻で注目された。圧縮シリーズとは反対に流れ出すと泡状に膨らむ発泡ポリウレタンを使った「エクスパッンション(膨張)」シリーズを発表、世界中で公開制作を行い、見る人を興奮させた。65年には自分の親指を高さ41センチに拡大した作品を発表、次々と規模を大きくし、93年にはパリに12メートルの親指を完成させる。自らを“田舎もののアルティザン”を自称するセザールの想像力は衰えることがない。
箱根・彫刻の森美術館にくず鉄の作品「ヴィルタヌーズの勝利の女神」(1965)、美ヶ原高原美術館には「親指」(1988)がある。1998年死去。

略歴

「アルティストというよりアルティザン」を自称するセザールは1960年、評論家のピエール・レスタニーや、イヴ・クライン、ジャン・ティンゲリー、クリスト、アルマンらの作家が主導するヌーヴォー・レアリスム(新具象派)の運動に加わったとされているが、セザール自身は、「まず彼らが私のくず鉄の作品を最初に認めてくれたのだが、私は彼らの理論に巻き込まれたわけではない。たまたま彼らと近くに住んでいて、親しかったから……」だといっている。彼らが「作家である以前に、まず理論家であり、詩人」であり、ダダイスムの祖マルセル・デュシャンの立場により近かったのに対し、セザールのほうは「理論より先に手が動いてしまう」。素材を愛し、多彩な素材を思いもかけない新たな形態に変容させることに喜びを見出す。
1921年、南フランスの港町、マルセイユに生まれ、そこで育った。作家としてはセザールの名だけで通しているが、本名はセザール・バルダッチーニという。イタリア風の姓からも察せられる通り、父はトスカーナ生まれのイタリア人だった。マルセイユの美術学校で学んでから、21歳でパリに出て、パリ国立美術学校でアカデミックな修業も積み、制作活動に入った。
1950年代、くず鉄を溶接した人や動物、昆虫の彫刻で注目された。高価な素材が買えずに、くず鉄を使ったまでなのだが、それが独自の技法へ導いた。1956年、ヴェネツィア・ビエンナーレで個展の機会を与えられ、国際的評価を確立した。資力ができてからはブロンズや大理石など、貪欲に多彩な素材に挑戦していく。箱根・彫刻の森美術館所蔵の『ヴィルタヌーズの勝利の女神』(1965)にも、この「くず鉄時代」の名残りがあり、ボルト、ネジ、ナットのくず鉄の類が随所に使われている。当時、セザールはエピネー、サン・ドニ、ヴィルタヌーズと3カ所にスタジオをもっていた。題名の由来である。
ごみ捨て場にくず鉄を探しにいったとき、自動車がプレス機でスクラップにされる現場を目撃、その過程と、出現するフォルムに魅せられて、車をプレス機でつぶした『コンプレッション(圧縮)』シリーズを発表、美術界を瞠目させた。さらに、流し出すと泡状に膨らむ発泡ポリウレタンの性質を利用し、圧縮とは逆の『エクスパンション(膨張)』シリーズを生み出し、これを機に、世界中で公開制作をおこなった。
1960年代、指や乳房を拡大する型取りシリーズがはじまる。自分の親指を型取った最初の作品は約40センチだったが、1988年、美ケ原高原美術館での第2回ロダン大賞展に招待出品、大賞を受賞した『親指』は高さ3メートルにもなり、ソウル五輪のオリンピック公園では6メートルに、パリの新都心デファンス地区では、ついに12メートルに拡大した。手ならばロダンもブールデルも高村光太郎も彫刻にしている。だが、指だけを拡大した彫刻は古今に類がない。実物にそっくりながら巨大化された『親指』は、この世のものならぬ非日常的な感覚に包まれている。女優のブリジット・バルドーの乳房を型取ってみたかったが、これは果たせなかった。エッフェル塔の重量軽減工事から出た鉄の梁を、高さ18メートルという巨大な作品に生まれ変わらせた『エッフェルに捧ぐ』(1984-88)にも、セザールの「巨大化」への飽くなき志向が躍如としている。
この時期にあって異色なのが、ピカソへのオマージュとして制作されたブロンズの作品『ケンタウロス』(1983)である。箱根の『ヴィルタヌーズの勝利の女神』が神話を踏まえているのと同様に、ここにもセザール芸術の根幹にある古典主義がうかがわれる。
晩年はオブジェによる巨大な「絵画」を志向しているようであった。1995年、100周年を迎えた第46回ヴェネツィア・ビエンナーレのフランス館では、レーシング・カーを圧縮したものを床から高く積み上げると同時に、レリーフ風に壁に張り付けてみせた。『コンプレッション』シリーズの新たな展開といってよく、たとえば数多くの水差しを平たく圧しつぶしたオブジェでパネルを隙間なく埋める壁面作品など、水差しの固有色をも生かしながら色彩豊かな「絵画」に変容させる、この錬金術師の手際はまことに鮮やかであった。


松村寿雄
 
1998年12月6日逝去

略歴 年表

1921
1月1日、南仏、マルセイユに生まれる
父親はイタリア出身の樽作りの職人
1935-43
マルセイユ美術学校
1943-50
パリ国立美術学校
1947
モンペリエで製陶工の職業訓練を受ける
1952
友人の工場やガレージで屑哲の溶接による作品を制作
1954
初個展“アマルガム(屑鉄の動物)”の「魚」でボザールのコラボ賞受賞
1956
ピカソに出会う。サロン・ド・メ(パリ)に初めて出品
1959、64、 68
カッセルのドクメンタⅡ、Ⅲ、Ⅳに出品
1960
サロン・ド・メに自動車の「圧縮」3点を出品
ピエール・レスタニーが設立したヌーヴォー・レアリストに参加
1965
パリ、クロード・ベルナール画廊の「手」展に最初の“型取り”作品「親指」を出品。第8回国際ビエンナーレ展(東京)に出品
1967
ポリウレタンの“膨張”に着手、サロン・ド・メに展示する
ミュンヘン、サンパウロ、リオ・デ・ジャネイロなどで“膨張”を公開制作する
1968
ロンドン、ブリュッセル、ローマ、パリ等で“膨張”を公開制作
1970-86
パリ国立美術学校のアトリエ主任教授
1971
最初のプレクシガラスの圧縮、宝石の圧縮を制作
1972
自分の顔を型にした“マスク”シリーズの制作に取り組む
1976
布、紙、ボール紙などを素材にした圧縮による壁を制作。1976最初のヨーロッパ巡回回顧展(ジュネーブ、グルノーブル、ロッテルダム、パリ)
1982
東京で「Tokyo・圧縮」、「イエス・コーク」を、サウジアラビアのジェッダでモニュメント制作する。東京、西武美術館と倉敷、大原美術館、ベルギー、リエージュ近代美術館でそれぞれ回顧展
1986
パリ市立近代美術館で個展
1987
ニューヨーク、グッゲンハイム美術館で回顧展
1988
パリ、ポンピドゥーセンターで回顧展
1991
フランス国家功労賞を受ける
1993
レジオン・ドヌール・オフィシエ章
故郷マルセイユで回顧展
1995
ヴェネツィア・ビエンナーレで巨大圧縮作品“自動車の壁”を発表
1996
高松宮殿下記念世界文化賞・彫刻部門受賞
東京、ギャラリーGANで個展
1998
12月6日、パリの自宅で逝去

主な作品

1969
モニュメント「拳」 (サン・シールの陸軍幼年学校)
1970
「マルセイユ帰還兵士の記念碑」 (高さ10mの三葉プロペラのブロンズ)
1983
「ケンタウロス」 (ピカソへのオマージュ)
1984
「エッフェルに捧ぐ」 (18m、ジュイ・アン・ジョザス、カルチェ財団の庭園)
1986
「未来の男」 (クラムシイ)
1988
「ザ・フライング・フレンチマン」 (香港文化センター、カルチェ財団) 「親指」 (6m、ソウル、オリンピック公園)
1993
「親指」 (12m、パリ、デファンス)
  • セザール、ジュヌヴィリエにて(1961)

  • セザール、ジュヌヴィリエにて(1961)

  • ケンタウロス

  • 親指(デファンス、パリ、1993)

  • アトリエにて(1996)

  • アトリエにて(1996)

セザール、ジュヌヴィリエにて(1961)
©cesar/SCAC

セザール、ジュヌヴィリエにて(1961)
©cesar/SCAC

ケンタウロス(パリ、1983)
©The Sankei Shimbun

親指(デファンス、パリ、1993)
©The Sankei Shimbun

アトリエにて(1996)
©The Sankei Shimbun

アトリエにて(1996)
©The Sankei Shimbun