第4回
1992年
彫刻部門
Anthony Caro
アンソニー・カロ
1960年代に発表した鉄板や鉄骨を溶接して構成し、赤、青、黄色などで鮮やかに均一に彩色した抽象作品は、世界の瞠目を集めた。広い空間に台座のない大きな造形を置く、その自由な伸びやかさと強靭な構成力は他の追随を許さない。
1924年、ロンドンの近郊に生まれ、工芸学校で彫刻を学ぶ。第二次世界大戦後ケンブリッジ大学で工学を修め、51年から2年間ヘンリー・ムーアの助手を務める。ムーアの影響が色濃い50年代の、人体をデフォルメした具象的作風を一変させたのは、59年はじめて行ったアメリカで接したデイヴィッド・スミスなどの前衛美術である。ロンドンに戻り、すぐに表面を明るく塗った抽象彫刻を作り出す。
70年代から80年にかけては、色を捨てて鉄の猛々しい赤錆の材質感と垂直な線を生かしたストレート・シリーズがはじまる。その後の展開もめまぐるしく、紙、粘土、木などの素材を用いたり、建築と彫刻を結び付け、自ら命名した“スカルプテクチャー”、マティスなどの名画に触発された“ソース(源泉)彫刻”など次々と挑戦。「彫刻家は未知の世界に飛び込んで新しい物を発見するのが仕事」と語る。
略歴
アンソニー・カロにとって1959年の初の渡米は啓示的だった。おりからアメリカは1960年代へ向けての胎動期で、美術評論家のクレメント・グリーンバーグを通じて知遇を得たデイヴィッド・スミスやケネス・ノーランドらの「考えと作品の傾向とが、石膏や粘土の古い様式から抜け出したいという私の確信を深めてくれた」という。
このアメリカでの体験が、初期の人体を極端にデフォルメした具象的作風を一変させた。翌60年にロンドンに戻ってすぐ、鉄板や鉄骨を溶接し、赤、青、黄と鮮やかに彩色した抽象彫刻を初めて制作した。彩色されて鉄の質感を失い、台座を排した軽やかな造形は、世界の美術界を瞠目させた。1963年、ふたたびアメリカに戻って、スミスとの親交を深めたが、1965年にスミスが自動車事故で没すると、彼が貯えておいた彫刻の素材を買い取り、自身で使用すべくイギリスに送った。
カロは1924年、ロンドン近郊のサリー州ニュー・モルデンに生まれた。ケンブリッジ大学で工学を修める以前から彫刻をはじめ、卒業後もロイヤル・アカデミーで学び、1951年から2年間、ヘンリー・ムーアの助手をつとめた。「アカデミックな教育を受けた私にモダン・アート、アヴァンギャルド・アートへのドアを開いてくれた」ムーアから受けた影響は甚大だったが、そこから抜け出るのも早く、アメリカでの開眼となったわけだ。1965年からは定期的にアメリカに滞在するようになり、1960年代の彩色彫刻時代を経て、70年代から80年代にかけては、鉄の猛々しい赤錆の材質感と垂直な線を生かしたストレート・シリーズがはじまる。
その後の展開も目まぐるしいばかりで、バルセロナから持ち帰った鉄くずを使用したカタロニア・シリーズ、『子供のタワールーム』(1983-84)のようになかに入って体験できる、建築に近づいたスカルプテクチャー、さらにレンブラント、ルーベンス、マネやマチスの名画に触発された源泉(ソース)彫刻、さらにはペーパー・ワーク、クレイ・ワークと、カロ彫刻は、軽妙さと猛々しさの両極を自在に闊歩する。いったん確立したスタイルに安住せず、常に新たな理念を模索し、新たな素材と様式を求めながら、彫刻の地平を広げてきた。「無題」を好む抽象作家の多いなか、カロにはピンクに塗った鉄の抽象形態の作品にルイ15世の寵姫の名前『ポンパドゥール』(1963)とか、アーチ型の造形に『グリンプス・オブ・アーカディー(理想郷を一瞥して)』といったタイトルをつけて楽しむ、機知に富んだ詩人の一面がある。
カロ芸術の日本への紹介ははなはだ遅れたが、1982年、東京都美術館を皮切りに全国を巡回した「今日のイギリス美術」展に大作『ツンドラ』を出品、その雄勁な造形の与えた感銘は、ほとんど語り草になっている。日本初の個展が開かれた1990年に初めて来日、福井県小浜市に滞在し、和紙による作品制作に取り組んだ。翌91年にはマティスの同名の絵画を踏まえた源泉彫刻『モロッコ人たち』を美ヶ原高原美術館のヘンリー・ムーア大賞展に招待出品して、受賞している(箱根・彫刻の森美術館蔵)。
1994年、満70歳を迎えたのを機にギリシャ神話に題材をとった群像『トロイ戦争』をロンドンのケンウッドハウスで発表した。37体から成るオリンポスの神々やギリシャ、トロイ両軍の英雄たちは、おおむね陶製の頭部を鉄の胴体が支えており、木も使われている。エロティックなアフロディテ、武張ったアキレウスといった感じはうかがえるが、具象彫刻とはいえない。「物語を解説するようなイラストレーションではないが、物語の要素は重要」と自ら語る。20世紀彫刻に失われて久しい物語性の復権が、カロの「新たな出発」となった。
1992年、ローマの古代遺跡を会場に大回顧展が開かれたが、1995年には、東京都現代美術館で初期の人体彫刻から前記の『トロイ戦争』の連作まで、過去40年にわたる制作の過程を100点を越す作品でたどる最大規模の個展が実現した。
カロはセント・マーティン美術学校で長く後進の指導にあたり、同校はイギリス彫刻のメッカとして多くの俊英を輩出した。クレメント・グリーンバーグはカロを「イギリス彫刻のモーゼ」にたとえている。
松村寿雄
略歴 年表
巡回)
1969-70 太陽の饗宴
1975 ツンドラ
1984-87 モロッコ人たち(箱根・彫刻の森美術館)
1988 アフター・オリンピア
1989 草上の昼食Ⅱ
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ある朝早く
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プレーリー-大草原
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エマ・ディッパー
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アトリエにて
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アトリエにて