第1回
1989年
音楽部門
Pierre Boulez
ピエール・ブーレーズ
革新と反逆を旗印に、第2次大戦後のクラシック音楽界に強烈な刺激と新しい指針を与え続けている作曲家、指揮者、音楽教育家である。
1925年、フラスのロワール県で生まれる。秀才の集まるエコール・ポリテクニックを目指し、高等学校では数学を専攻するが、やがて音楽の道に進む。パリ音楽院でオリヴィエ・メシアンに学び、40年代半ばから作曲活動を始めた。46年、「フルートとピアノのためのソナチネ」などを次々と発表、新鋭作曲家として注目を集める。西洋音楽の古典的な諸形式を解体したといわれる「ピアノ・ソナタ第2番」、戦後の音楽に指標的な価値を持つと評された「主のない槌(つち)」(1952-54,改訂57)などは、日本でもよく演奏されている。一方、マドレーヌ・ルノーとジャン・ルイ・バローの劇団の音楽監督としても活躍。
70年代にフランス国立の「IRCAM」(音楽/音響の探究と調整の研究所)を創設、IRCAMで繰り広げられた活動は、フランスはじめヨーロッパ現代音楽文化を統合するものであった。1991年IRCAM所長を辞任し、活発な、挑戦的な演奏、作曲活動を展開している。
略歴
ピエール・ブーレーズが20世紀後半の前衛を代表する最も重要な作曲家のひとりであることに異論は少ないだろう。
1925年、フランス、ロワール県で生まれた。パリ音楽院でオリヴィエ・メシアンに和声を学び、またルネ・レイボヴィッツに私的に師事して12音技法を習った。卒業後、ジャン・ルイ・バロー劇団の音楽を担当、1954年バロー夫妻の支援で「ドメーヌ・ミュジカル」(1955年にこの名称に改称)を創設し、現代音楽の普及に力を注いだ。
ブーレーズの音楽は原則として「全面セリー主義」によっている。構成ははっきりとし、偶然性は管理される。音楽から秩序が聞き取れるのだ。彼はこの技法を用いて、1952年、2台のピアノのための『ストリュクチュール』第1巻を完成させた。同じころアメリカではジョン・ケージが、易とコイン投げという「偶然性」を使って2台のピアノのための『易の音楽』(1951)を作曲していた。このふたつの作品は、音の管理について正反対のアプローチをとったものだったが、共通していたのは、ともに混沌とした響きで伝統的な調性を完全に破壊していたことだった。
ブーレーズはまた、常にテキストと音楽の関係を追及してきた。彼はジェームス・ジョイス、ステファン・マラルメ、ルネ・シャールらの詩に大きな影響を受けたが、シャールの詩による初期の代表作『ル・マルトー・サン・メートル』(主のない槌)(1952-54、改訂57)は彼の作品中でも最も美しいものだろう。フルート、ギター、ヴィオラ、ヴィブラフォン、ザイロフォーン、パーカッション、それに独唱を導入し、こうした編成はこれ以降、現代室内楽アンサンブルの器楽編成のひとつのモデルとなった。その他の作品にマラルメの詩を音楽に変質させた『プリ・スロン・プリ』、『リチュエル』などがある。
1970年代に入ってブーレーズは、パリのポンピドゥー・センターに政府の強力な支援で、IRCAM(音響・音楽の探求と調整の研究所)を創設。付属のオーケストラ「アンサンブル・アンテルコンタンポラン」による活発な演奏会や教育活動をおこない、音楽創造の問題をコンピューター技術者や科学者、音楽家がチームで協力して研究する態勢が整えられた。最良の音響を得るためパリのポンピドゥー・センター横の地下につくられたIRCAMで繰り広げられた活動は、フランスをはじめヨーロッパの現代音楽文化を統合するものであった。IRCAMを通じて生まれたひとつの重要な作品がオーケストラとデジタル装置のための『レポン』(1981-86)である。
かつて音楽家は作曲者でありピアニスト、そして指揮者であった。すべてをこなした時代とは違い、分業化した20世紀において、専業の指揮者以上の成功を収めているブーレーズの存在はユニークにみえる。1959年、南西ドイツ放送局管弦楽団との仕事がはじまった。1963年、パリ・オペラ座でベルクの『ヴォツェック』をフランス初演。1967年、クリーブランド管弦楽団に招かれ、1971年にはBBC交響楽団の首席指揮者、また1971年から77年にかけてニューヨーク・フィルハーモニックの音楽監督を務めた。なかでも1976年のバイロイト音楽祭100年祭で指揮した、パトリス・シェロー演出の『ニーベルングの指輪』は語り草になっている。取り上げる作品はドビュッシー、ストラヴィンスキー、シェーンベルク、ベルクらと見方によれば偏っている。伝統を拡張するために戦い続けたブーレーズは「実験的であること」を選択の基準に置いているといえる。
ブーレーズはもちろんただの破壊者ではない。「音楽家は知的な人間であると同時に職人(アルティザン)である。音楽家が表現したいことに対して統一性を与え得るのは、ただこの二重の態度だけである」(論文「美学とフェティッシュ」より)と語る。職人性こそヨーロッパ芸術の伝統で、ある意味では伝統主義者であると考えることもできる。
1991年、IRCAMの所長を辞任し、作曲活動、演奏活動は活発化している。1995年、70歳を記念し、東京、ニューヨーク、パリでブーレーズ・フェスティバルが開かれた。日本での指揮はほぼ20年ぶり。マウリツィオ・ポリーニ(ピアノ)、ダニエル・バレンボイム(ピアノ、指揮)、ギドン・クレーメル(ヴァイオリン)ら超一流のソリストに、シカゴ交響楽団、ロンドン交響楽団らを引き連れた大規模な音楽祭だった。世界文化賞を受賞した際、「私の内面は噴火直前のマグマのように燃えたぎっている」と答えていたが、ブーレーズは、聴衆に対しても、演奏家に対しても、また自分自身に対してさえ、決して挑戦の姿勢を失っていない。
江原和雄
略歴 年表
主な作品
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ピアノソナタ第3番の楽譜(1957)
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©The Sankei Shimbun(1989)
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©The Sankei Shimbun(1989)