第8回
1996年
音楽部門
Luciano Berio
ルチアーノ・ベリオ
電子音楽の先駆者の一人であり、前衛的手法と感性とのバランスのとれた新しい音響世界を次々と生み出し、作曲家、指揮者、教師として国際的に精力的な活躍を続けている。
1925年、イタリアのインペリア県オネーリャ生まれ。数世代にわたる音楽家の家系で、6歳からオルガン奏者の父と祖父に音楽の手ほどきを受ける。右手を痛めたため、ピアニストになることを断念、ミラノ音楽院に入学し、作曲や指揮を学ぶ。卒業後、アメリカ・タングルウッドの講習やダルムシュタット国際現代音楽夏期講習に参加。これらの出会いで変容を遂げ、「室内楽」など従来の概念を凌駕する作品を生む。
アメリカの音楽界を知ったことで早くから電子音楽に関心をもち、1955年ミラノのイタリア国営放送局に電子音楽スタジオを創設、所長となる。専門紙も編集し、演奏会も主宰。ピエール・ブーレーズ(世界文化賞受賞者)やジョン・ケージなどが参加した。
63年にはミルズ大学から招聘され、アメリカに本拠を移し、ハーバード大学やジュリアード音楽院でも教える傍ら、ジュリアード・アンサンブルを創設し、指揮する。72年、イタリアに戻り、74年、パリのIRCAM(音響・音楽の探求と調整の研究所)電子音楽部門の責任者となり、87年からはフィレンツェ市ヴィッラ・ストロッツィの研究センターで独自のコンピューター・システムを用いて制作活動を続けている。
略歴
ルチアーノ・ベリオは1950年代後半、とくにその先駆的な電子音楽によってヨーロッパ前衛音楽の旗手として華々しく登場した。ベリオの音楽は複雑で難解なようだが、輝く太陽と美しい声の国イタリアの響きを感じさせる。
ベリオは1925年、イタリア、インペリア県オネーリャの音楽家の家に生まれた。祖父と父は共にオルガン奏者で作曲家、ふたりから音楽の手ほどきを受けた。12歳のときにはロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』に触発されピアノ曲をつくっているという。パルティザンに加わったベリオは19歳のとき、銃の暴発事故で右手を負傷しピアニストを断念する。そのため本格的に作曲を学んだのは第二次世界大戦後。ミラノのヴェルディ音楽院でゲディーニに作曲を、ジュリーニに指揮を師事した。その後、アメリカに渡り、タングルウッドでイタリア出身の作曲家ルイージ・ダラピッコラに12音技法を学んでいる。
1955年、友人の作曲家ブルーノ・マデルナとともにミラノの電子音楽スタジオを設立。初めは電子音楽の作曲者として認められた。1974年から80年まで
ピエール・ブーレーズ
が設立したパリのIRCAM(音響・音楽の探求と調整の研究所)の電子音響部門の責任者を務めた。
録音した音を使ってコラージュ的に仕上げる手法、「ミュージック・コンクレート」を電子音楽の合成音と融合させようというベリオの試みは、すぐれたテープ音楽作品『テーマ/ジョイス賛』(1958)や『ヴィザージュ』(1961)に結実した。両作品ともアルメニア系アメリカ人のメゾソプラノ歌手キャシー・バーベリアンの声を前面に押し出したものだった。ふたりは1950年、出会って数カ月で結婚、二人三脚で声の可能性を追求する作品をつくっていった。バーベリアンは並外れた才能と感受性をもった歌手で、ベリオは彼女のために『サークルズ』、『リサイタルI』、『セクエンツァIII』などの作品を作曲している。残念ながら彼女は1983年に亡くなった。
バーベリアンをはじめとする特別な音楽家たちを使ってこうした新しい音楽を生き生きと実現できたことから、彼は従来の楽器の演奏技術の限界を超えた、まったく独創的な一連の作品を作曲することになる。そうした作品のひとつに『セクエンツァVI』(1967)がある。この曲は複雑な4声のハーモニーで書かれ、ソロのヴァイオリニストはトレモロを極限のテクニックで表現しなければならない。このようなテクニックの展開は記譜法上の革新をももちこんだ。
オーケストラと独唱のための5部構成の巨大な作品『シンフォニア』(1968-69)はこの時期の代表的作品で、ベリオは極めて広範な作曲技法を駆使している。この曲の第2楽章『おおキング』はマーティン・ルーサー・キング牧師の暗殺に刺激されて書かれ、第3楽章はマーラーの交響曲第2番、ベートーヴェンからブーレーズまでの音楽史上のさまざまな作品の断片を引用して用いている。また、パリの学生紛争時代を背景として「アンガージュマン(社会参加)の音楽」と呼ばれた時期があった。
過去の音楽のコラージュや編曲は常に過去とのつながり、時代を超える作品を意識していた。3世紀にわたって生きるモンテヴェルディの音楽の精神のなかに生きなければと力説し、「トランスクリプションは音楽のなかに入っていく分析手段としては最上のものだ。翻訳とかトランスクリプション、暗号の解読といった作業は、ひとつの均質な文化のなかでも有意義であり、同時に異文化間にあっても生産的なのだ」(「ポリフォーン」より)と音の歴史性をいう。しかし、クラシックと同じ歴史の流れのなかにある現代音楽に対する理解が大きく進んだとはいえない状況がある。ベリオは「私は現代音楽という区分は信じていないし、クラシックとともにお互いを尊重し合いながら共存できる」と話す。
初来日は1969年。1992年には武満徹が企画していた音楽祭「今日の音楽」のために来日。また1998年5月5日のこどもの日には東京、初台のオペラシティで、子供たちを対象にした音楽入門コンサートに出演している。1996年にはミラノ・スカラ座でオペラ『Outis』が上演され、1999年にはザルツブルク音楽祭で新作オペラ『Cronaca del Luogo』が初演される。
「私にとってはさまざまな次元のもの、さまざまな音響をまとめあげることが創作の一貫したテーマだ」という。音楽のさまざまな可能性や形式や技術だけでなく、同時代の文化のあらゆる可能性を彼は追究し続ける。
江原和雄
2003年5月、ローマの病院で逝去
略歴 年表
主な作品
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自宅にて
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自宅にて
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自宅にて