第3回
1991年
建築部門
Gae Aulenti
ガエ・アウレンティ
駅舎を美術館として見事に蘇らせたパリのオルセー美術館(1986)、ポンピドゥー・センター現代美術部門の改修などで「マダム美術館」とも呼ばれるイタリアの女性建築家。その仕事は建築のみならずインテリア、家具のデザイン、工業デザイン、商品ディスプレー、舞台装置、庭園設計などきわめて多岐にわたる。
1927年イタリア北東部ウーディネ近郊に生まれ、ミラノ工科大学に学んだ。建築専門誌「カサベラ」の編集に10年間たずさわったあと、本格的な設計活動を開始。フィアット社ショールームの改装(1969)で注目をあつめ、ベネチアの「パラッツォ・グラッシ」の改修では、大胆な手法で17世紀のこの歴史的建造物を美術館として再生させた。ルーヴル美術館・フランス館の改修(1991)、ミラノ・トリエンナーレ特設会場(1994)などでも成功をおさめ、「建築家」という言葉ではくくれない総合的デザイナーとして多彩な活動をつづけている。
略歴
ガエ・アウレンティの仕事で最も知られているのがパリのセーヌ川左岸にある『オルセー美術館』であろう。ヴィクトール・ラルーの設計により1900年に建てられた駅舎をアウレンティが1986年に再生させたのである。横幅40メートル、長さ130メートル、天井の高さは32メートル。べル・エポック時代の壮麗な駅舎の鉄の枠組みはそのまま残し、自然採光と人工照明を調和させ、ベージュや淡いグリーンを基調とした落ち着いた機能性を考慮した内装で、セザンヌ、モネなど19世紀の名画を引き立てているのである。駅舎をまったく異なった美術館に変貌させた手腕は世界で高く評価されている。
彼女の仕事は改修といった室内の仕事が主で、とりわけ、美術館の改修やその展示品のディスプレーに力を発揮する。ヴェネツィアの歴史的建造物『パラッツォ・グラッシ』の修復では、長いあいだ閉ざされていた窓を開け、取り除かれていた壁を復元して成功を収めた。そして、この会場でおこなわれた「未来派展」(1986)、「ケルト展」(1991)、「西洋のギリシア展」(1996)などの展覧会の会場構成も担当し、質の高い展示空間を創造した。
このほかポンピドゥー・センターの現代美術部門の改修、1991年のルーヴル美術館・フランス館の改修、1994年のミラノ・トリエンナーレのために設計した特設会場は、アウレンティの才能が遺憾なく発揮された。彼女はこのように美術館の仕事が多いため「マダム・美術館」とも呼ばれている。
アウレンティは1927年、イタリア北東部のウーディネに生まれた。ミラノ工科大学建築学部を卒業し、建築評論家アーネスト・ロジャースが1955年から65年まで編集長を務めた建築専門誌『カサべラ』に同時期、編集者として関わった。この経験は人格、仕事においても幅を広げることになった。
「あまり気に入らない建物の改修をおこなうことも、それを設計した建築家の意図などを客観的に分析したり、評価することができる」 彼女の仕事は美術館の改修や企業のショールーム、そして舞台美術というように多岐にわたっている。1969年のフィアット社ショールーム(チューリッヒ、スイス)の改装では、車をガラスケースに入れ、斜めに展示するという大胆な手法を提案し、ショールームのイメージを一変させた。その卓抜したデザイン・センスは庭園の設計にも生かされた。イタリアのトスカーナ地方にある住宅の庭『グラナイオロの庭園』(1970)では、丘陵の上に建つ16世紀の建物を、斜面に沿って下がっていく芝の階段状テラスが囲み、ランド・アートのように芸術的に仕上げたのである。
さらに彼女はオペラ演出家ルーカ・ロンコーニの舞台美術でも才能を発揮した。ミラノ・スカラ座における、1980年のシュトックハウゼンの『光の木曜日』から1994年のリヒャルト・シュトラウスの『エレクトラ』まで、どれもダイナミックな舞台を構築していた。
「ひとつの分野だけの専門家にはなりたくない」と椅子や照明器具のデザインも手がけている。折り畳み椅子の『アプリリーナ』、ランプの『ピピストゥレッロ』などすでに古典といわれている作品があり、生産主義的なアイデアを排除し、機能性の追求以上に空間的な効果を重視した柔らかくやさしいデザインが特徴だ。
建築を最初の設計から手がけたものは唯一、イタリアのブリエッラに1994年に完成した『ストゥーディ市立大学』があるだけだ。文化的教養が高く、批評眼に優れたアウレンティの力は、建築を超えて文化全般にまでおよんでいる。
渋沢和彦
略歴 年表
主な作品
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オリヴェッティ・ショールーム
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テーブル・ランプ「ルスパ」
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グラナイオロの庭園
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ポンピドゥー・センターの改修
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オペラ「エレクトラ」の舞台装置
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自宅にて