第30回
2018年
絵画部門
Pierre Alechinsky
ピエール・アレシンスキー
ベルギーを代表する90歳の現代美術家。1944年から4年間、ラ・カンブル国立美術学校で学び、1948年結成の国際的な前衛美術集団「コブラ(CoBrA)」(1951年解散)で活躍。その後、パリに移住。京都の前衛書道家、森田子龍と交流を深め、1955年に初来日。『日本の書』という短編映画を製作した。書道の影響を受けた自由な筆さばきと、乾きやすいというアクリル絵具の特性を活かし、自身の内面を大胆に表現する。鮮やかな色彩と、複雑かつ有機的、躍動感と生命感にあふれた線描で、独自のスタイルを確立。1960年と1972年にはベルギー代表としてヴェネツィア・ビエンナーレに出品。2016−17年には日本初の大規模回顧展が日本・ベルギー国交関係樹立150年を記念して東京と大阪で開かれた。最近、フランス国籍も取得し、ベルギーからは初の世界文化賞受賞。
略歴
絵画、版画、書道、デザインと多岐にわたるスタイルで、自身の内面を大胆に表現することで知られる、ベルギーを代表する現代美術家。90歳の今も、その創作意欲は衰えることを知らない。
医師の両親のもと、ブリュッセルに生まれ、1944年から4年間、ラ・カンブル国立美術学校でイラストや版画、本の装丁などを学ぶ。1948年に結成された国際的な前衛美術集団「コブラ (CoBrA) 」に翌年加入し、最年少メンバーとして活動した。デンマークのコペンハーゲン、ベルギーのブリュッセル、オランダのアムステルダムの頭文字から命名されたこの芸術集団は結局、3年間の短命に終わったが、アレシンスキーは、内面から湧き上がるプリミティブ(原初的)な創作衝動に沿った、迫力ある作品づくりを標榜したこの集団の精神を受け継いだ。
その後、パリに移住。禅の画家、仙厓を師と仰ぎ、1952年から京都の前衛書道家、森田子龍と交流を深め、1955年にミッキー夫人と共に初来日。日本滞在中に篠田桃紅(現在105歳)らとも交流し、『日本の書』と題した15分の短編映画を製作するほど、日本の書道に魅せられた。
「紙、墨、筆という最小限の道具で最大の効果を発揮する驚くべき技です。日常的な手書きの文化は西欧では重要視されませんが、日本の看板などに見られる豪快な文字は、文字が持つ重要な意味を示唆しています」
作品の特徴である鮮やかな色彩と、複雑かつ有機的で、躍動感と生命感にあふれた線描は、日本文化の影響を色濃く受けている。さらに、1965年に米国で中国人画家、ウォレス・ティンからアクリル絵具の使い方を学び、アクリル絵具の乾きやすい特性を活かし、流れるような、自由闊達な筆さばきに磨きをかけた。この時のアクリル絵具作品《セントラル・パーク》が作風の転機となった。
こうした独自の創作スタイルを基盤に、過去60年間に数多くの作品を発表しているが、アレシンスキーは文筆家でもあり、文字のある反故紙を使った作品も多い。1960年と1972年にはベルギー代表としてヴェネツィア・ビエンナーレに出品したほか、世界各地の美術館で個展を開催。2016−17年には日本初の大規模回顧展が日本・ベルギー国交関係樹立150年を記念して東京と大阪で開かれた。
1983年から4年間、パリの国立高等美術学校「エコール・デ・ボザール」で教授を務めるなど、後進の育成にも力を入れている。最近、フランス国籍も取得し、ベルギーからは初の世界文化賞受賞。
略歴 年表
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ピエール・アレシンスキー
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パリ郊外ブージヴァルのアトリエにて
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パリ郊外ブージヴァルのアトリエにて
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《窓と同じくらい》
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フランス文化省「控えの間」の壁画
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《開口部》