第5回

1993年

建築部門

Kenzo Tange

丹下 健三

 日本の伝統建築を消化し、ル・コルビュジエらの西洋近代建築に傾倒しながら独自のスタイルを確立してきた世界的な建築家。その軌跡は、日本の近代建築が世界の注目をあつめていく歴史にそのまま重なっている。
  1913年大阪に生まれ、38年、東京大学建築学科を卒業、前川国男建築事務所をへて東京大学大学院で都市計画を学ぶ。母校で教鞭をとり、大谷幸夫、槙文彦、磯崎新、黒川紀章ら日本を代表する建築家を育てるかたわら、49年、「広島市平和記念公園及び記念館」の設計競技で1等に選ばれ、「広島平和記念館」など一連の設計で称賛を浴びた。東京オリンピックの屋内施設「代々木国立屋内総合競技場」(1964)でその国際的名声を決定的なものにし、
70年大阪万博では会場マスタープランを担当。海外でもユーゴスラビアのスコピエ(1964-66)、サンフランシスコ(1971-76)、イタリア・ボローニャなどで、都市再建計画に取り組む。「東京都庁舎」(1991)は、半世紀を越えるそのキャリアの集大成。

略歴

  「桂離宮、伊勢神宮など日本の伝統建築は学ぶものが多く勉強になるが、私は常に日本より世界に目を向けて仕事をしてきた」
丹下健三は、日本の伝統建築を昇華し、ル・コルビュジエらの西洋近代建築に傾倒しながら独自のスタイルを確立した、日本を代表する世界的な建築家である。
  1913年、大阪生まれ。東京大学建築学科を卒業後、ル・コルビュジエに学んだ前川国男の建築事務所勤務を経て東大の大学院へ戻り、母校で教鞭を執っていた1949年に『広島市平和記念公園及び記念館』のコンペで一等に選ばれた。そして公園内に実現した『広島平和記念館』(1952)など一連の建築設計で称賛を浴びた。どれも打放しコンクリートを用いた端正なプロポーションで新たな時代のデザインを予感させるとともに、戦後復興のシンボルとして、後に続く若い建築家の脳裏に深く刻み込まれた。
  東大の助教授、教授を勤めるかたわら、設計活動は旺盛に続けられた。黒い鉄材に覆われた『東京都庁舎』(1957)、日本の伝統建築の木割を意識したコンクリート打放しの小梁の表現が美しい『香川県庁舎』(1958)など優れた作品を発表した。そして彼の名を国際的にしたのが東京オリンピックのための『代々木国立屋内総合競技場』(1964)だ。その当時としては画期的な吊り屋根のダイナミックな構造で、内部に開放的な空間を作り出した。上空から見る貝のような有機的デザインのインパクトは今も色あせない。
  「機能ばかりの建築ではおもしろくない。かといって意味のないかたちを張り合わせたようなものでもいけない。そこが難しいところ」
  さらに1970年の大阪万博のマスター・プランを担当。中心施設として幅108メートル、長さ291メートルの大屋根を架けたハイテク空間、お祭り広場を創造し話題となった。
  丹下の仕事は都市計画でも卓越していた。たとえば東京の改造計画を提案した「東京計画1960」は、人口1000万人を超え、郊外にアメーバ状にスプロールした都市に対し、成長可能な地域構造を求めたものだった。都市という概念を否定し、線状に発展していく都市軸という概念を導入した。都心機能は都市軸上に分散、展開し、発展可能な開かれた構造へと改革していくことを目指したのである。これは提案にとどまったが、海外では都市再建に積極的に取り組んだ。1964年から66年に計画したユーゴスラビアのスコピエ都市中心部の再建、1967年から69年に計画したサンフランシスコのイエルバ・ブエナ・センター、1971年から76年に計画したシチリアのリブリノ、そして何よりもイタリア、ボローニャのフィエラ地区センター(1975-82)など数多い。
  近代建築のパイオニア、ル・コルビュジエ、フランク・ロイド・ライトらに比べ、一世代後に属する丹下は、イオ・ミン・ペイと並んで近代建築を本格的に世界に拡大していく役割をになっていった。そして日本の戦後復興と経済成長の中心的存在として活躍してきたのである。
  丹下の設計事務所は自身の設計した東京、赤坂の『草月会館』(1977)の11階にある。「東京が開発されていくさまがわかりおもしろい。同時に建築家の責任の重大さを感じる」。窓からは自身の設計した『新・東京都庁舎』(1990)のゴシック風の超高層ビルも見える。完成当時はマスコミをにぎわしたが、今は東京の顔として定着した。
「都庁の場合は象徴的な作品にしたかった。建築が議論されることはいいこと。それだけ関心がもたれているということだから」
東大時代には大谷幸夫、槇文彦、磯崎新、黒川紀章ら日本を代表する建築家を育てるとともに、近代建築の先端を常に歩んできた。1987年には建築界のノーベル賞といわれるプリツカー賞を日本人で初めて受賞した。


渋沢和彦
 2005年3月22日、東京の自宅で逝去

略歴 年表

1913
9月4日、大阪府に生まれる
1938
東京大学建築学科卒業、前川國男建築事務所に入り、岸記念体育館の設計を担当
1942
東京大学大学院に入学
1946-63
東京大学建築学科助教授
1949
広島平和記念館1等入選(広島市主催)
1954、55、58
日本建築学会賞
1959-60
マサチューセッツ工科大学客員教授
1961
丹下健三・都市・建築設計研究所開設。「東京計画1960」発表
1963-74
東京大学都市工学科教授
1965
英国王立建築家協会(RIBA)ゴールドメダル
1966
米国建築家協会ゴールドメダル
1970
ローマ法王庁聖大グレゴリオ勲章受章
1972
ハーバード大学客員教授
1974
東京大学名誉教授
1975
英国王立芸術院会員
1976
西ドイツ政府プール・ル・メリット勲章
1980
文化勲章受章
1984
フランス芸術文化勲章コマンドール。イタリア共和国有功勲章グラン・
オフィシエル
1987
プリツカー賞受賞
1993
高松宮殿下記念世界文化賞・建築部門受賞
2005
3月22日、東京の自宅で逝去

主な作品

1952
広島平和会館
1958
今治市庁舎、香川県庁舎
1964
代々木国立室内総合競技場。東京カテドラル
1970
大阪万国博覧会マスタープランとお祭広場
1975-
ボローニャ、フィエラ地区センター(イタリア)
1986
愛媛県県民文化会館
1991
東京都庁舎
1992
パリ・イタリア広場“グラン・デクラン”(パリ)
1993
国連大学本部施設
  • 広島平和公園と平和記念施設(1952)

  • 香川県庁舎(1958)

  • 代々木国立室内総合競技場 (東京、1964)

  • 代々木国立室内総合競技場 (東京、1964)

  • ボローニャ・フィエラ地区センター

  • オフィスにて

  • オフィスにて

広島平和公園と平和記念施設(1952)
©Kenzo Tange Associates

香川県庁舎(1958)
©Kenzo Tange Associates

代々木国立室内総合競技場 (東京、1964
©The Sankei Shimbun

代々木国立室内総合競技場 (東京、1964
©Osamu Murai

ボローニャ・フィエラ地区センター
(イタリア、1986)©Osamu Murai

オフィスにて
©The Sankei Shimbun

オフィスにて
©The Sankei Shimbun