第16回
2004年
建築部門
Oscar Niemeyer
オスカー・ニーマイヤー
オスカー・ニーマイヤーは96歳の今も第一線の設計者として、母国ブラジルをはじめ、世界各地の建設プロジェクトの設計を手掛けている。師ルシオ・コスタ、ル・コルビュジエらと共に1943年、旧教育保健省(リオデジャネイロ)、52年に国連本部(ニューヨーク)を設計。そして、50年代後半にはブラジルの一大国家プロジェクト、新首都ブラジリアの建設で、大統領府や国会議事堂、最高裁判所など主要建築物の設計を一手に手掛ける。曲線を駆使した独創的な発想は衰えを知らず、近年もリオ郊外にニテロイ現代美術館(96年)、クリチバにニーマイヤー美術館(2002年)などを設計。現在進行中のベトナム・ハノイの迎賓館やリオの海中博物館など、その構想は尽きない。
略歴
世界遺産に指定されたブラジルの首都ブラジリアの主要建築物をはじめ、世界各地で建設プロジェクトの設計を手掛けてきたオスカー・ニーマイヤーは、96歳の今も第一線の建築家として活躍し続けている。
「この美しい海岸線、山々の稜線。ブラジルの自然の中にある曲線から私のデザインは生まれる。女性の美しい体のラインからもインスピレーションが浮かぶんだ」。リオデジャネイロのコパカバーナ海岸を見下ろすペントハウスのオフィスで、大きな紙の上にデッサンを描きながら語る建築論は若々しい。
若手製図技師だったニーマイヤーは、師ルシオ・コスタ、“モダニズム建築の父”と呼ばれた仏のル・コルビュジエらと共に1943年に旧教育保健省(リオ)、52年に国連本部ビル(ニューヨーク)を設計。そして、50年代後半にブラジルの一大国家事業、新首都ブラジリアの建設で、大統領府や国会議事堂、最高裁判所など主要建築物の設計を一手に手掛けた。
「赤土だけで何もない、捨て去られたような土地で、ブラジリア建設は冒険だった」。当時、南半球の発展途上国ブラジルを世界に知らしめたこの壮大な遷都計画は、建築という概念を超えた“歴史イベント”として人々の記憶に刻まれる。「ここと似たような都市、こんな建築物はかつて見たことがないと思う。これが私の建築なのだ」
シンボル的で派手な建築物を数多く手掛ける一方で、84年からリオのスラム街の子供たちの教育を考えた学校(教育センター)の設計に従事。これまで200校が建設された。
設計者として常に「訪れる人を驚かせ、そして人を受け入れる建物にしたい」という。近年も、本人は花をイメージしたというが、リオ郊外の海岸に宇宙船が不時着したかのようなニテロイ現代美術館(96年)、クリチバに“屹立する巨大な目玉”のようなオスカー・ニーマイヤー美術館(2002年)を設計するなど、曲線を駆使した独創的な発想は衰えを知らない。
略歴 年表
サンパウロ「ラテンアメリカ記念公園市民広場」
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国会議事堂(1958、ブラジリア)
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プラナルト・パレス(大統領府) (1960、ブラジリア)
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陸軍総司令部 (1968、ブラジリア)
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カテドラル(1970、ブラジリア)
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タンクレード・ネーヴェス自由と民主主義のパンテオン (1986、ブラジリア)
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ニテロイ現代美術館 (1996、リオデジャネイロ近郊)
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オスカー・ニーマイヤー美術館(2002、ブラジル、クリチバ)
講演会
巨匠 オスカー・ニーマイヤーの建築を語る
--高松宮殿下記念世界文化賞 受賞記念フォーラム--2004年10月22日
16:00~17:40 鹿島KIビル
「友人オスカーの建築構造を担当して」
ジョゼ・カルロス・スッセキンド:構造建築家、1947年リオデジャネイロ生まれ。
JOSÉ CARLOS SUSSEKIND
はじめに
私はオスカー・ニーマイヤーの建築構造を長年手掛けて来ました。彼とは友人でもあります。オスカー自身が来日出来なかったのは残念ですが、それでも良いことが一つあります。つまり、彼からは聞くことが出来ないことでも、私からなら聞けるものがあると思うのです。オスカーの友人として、そして構造建築家としてお話したいと思います。
ローマのパンテオン神殿は、ブロックの並列という石造建築技術を使って約2000年前に建設されました。また、ルネッサンスの直前に完成したベニスのドージェ総督の大広間のフリースパンは、木造の桁で支えられています。数学的にも物理的にも、構造計算の基盤がない頃に建設されたこの二つの建物は、素材の活用が建築技術の発展につながり、建築の創造とスパン克服の夢を実現させた素晴らしい例です。
20世紀初めの頃は、世界中の建築家がバウハウスの近代建築運動に影響を受けました。私たちは凡庸という認識ですが、バウハウスのやり方は、構造を壁の中に隠すか、コーティングして隠してしまいます。まるで、構造は必要悪というような感じです。その結果として、建築物は単調な連続、塗られた箱を重ねているだけのものになってしまったのです。
- オフィスにて
ニーマイヤーの革新
このような時にオスカー・ニーマイヤーが登場したのです。
そして、機能主義という独善的なルールを壊し、曲線や非対称のフォルムの美、調和など、それ自体を目的に革新的な創造を見せました。それと同時に、技術的な問題を解決して安定を図り、構造をトータルに見せるという建築を創り出しました。特性と形状を優先させて、全体として調和をとっていきました。それは素晴らしい革新でした。
1940年のパンプーリャ・プロジェクトでこの革新が達成されました。円柱状のシェルが教会を覆い、そして薄い庇が湖の曲線に沿って続き、それらが強調されて、美と均衡の調和を確かなものとしています。形、光、そして薄い、大胆な、はっきりとしたコンクリート構造、これらはニーマイヤーがその70年間にも及ぶキャリアにおいて、また、すでに完成している500以上ものプロジェクト、その一つがブラジルの首都ですが、どのプロジェクトにおいても、決して妥協しなかった要素です。パンプーリャから10年ちょっと後のブラジリアのカテドラルを考えても、20世紀近代建築の真の統合の中で、建築とそれを支える構造とを分離することは誰にもできないでしょう。21世紀初めに構想されたニテロイのカテドラルにも同じことが言えます。これまで吊り下げる形式のカテドラルはありませんでしたが、初めて実現しました。
感受性と驚きと
一ヶ月ほど前のことです。オスカーと友人たち数人が集まる、私も入っていますが、毎週火曜日の夜に開いている哲学の会でのことです。話題は「哲学者は美をどう定義しているか」ということでした。オスカーは静かに立ち上がり、遠くを見つめながら、突然、やさしく控えめに話し始めました。「真の芸術は、二つのもの即ち、感受性と驚き、この二つが融合した時にはじめて生まれると思う。」これは彼が人生を通してやってきたこと、やっていること全てに通じることであり、一貫している発言だと思います。
オスカーは繰り返し「人が私のプロジェクトを見た時、好きになるかも知れないし、嫌いになるかも知れない。しかし、前に同じものを見たことがあるとは決して言わせない」と言っています。このびっくりすること「サプライズ」いう言葉は、フランスの詩人ボードレールと同じく、ニーマイヤーにとっても非常に重要なことなのです。古代ギリシャではあり得ないことですが。
そして、時にはコストの軽減を口実にして、斬新さや大胆さ全てを非難する動きもありました。伝統という殻の中に閉じこもる動きもありました。その後、徐々に非常に薄いスラブが何のためらいもなく受け入れられる時代が来たのです(1950、リオ・カノアスのオスカーの自邸の覆い)。そして鉄筋の円柱(1958、ブラジリアの大統領府、最高裁判所のファサード)、上部にあるメインの構造で吊り下げる建築物(1968、ミラノのモンダドーリ・パレスから2004年のミナス・ジェライス州政府ビルまで)、巨大な片持ち梁と広いスパン(1969、アルジェリアのコンスタンティン大学から2004年の州政府ビルまで)などが一般的になり、美しさ、驚き、機能性、あるいはプラスティックの材質などの需要もずいぶん多くなりました。
ミナス・ジェライス州政府庁は、90mのフリースパンです。そして何層もの建築物をまるで橋でもあるかのように吊り下げるという、素晴らしい発想です。吊り下げるということが、構造上可能になったわけです。綿密な計算の賜物です。こうした吊り下げ型のビルのメインの構造はトップにあります。これに関しましても、もう珍しいものではなくなりました。非常にシンプルな構造で、計算も難しくありません。重要なのはプロポーションです。
ニーマイヤー美術館ですが、後ろの白い建物はオスカーが30年ほど前に設計したものです。知事からこれを美術館にしたいという要請がありました。敷地面積でいいますと、ブラジルで最大の美術館です。皆この古い建物が好きでしたから、そのまま生かして隣に円形のビルを建てようと考えました。しかし、ファサードが損なわれるのではないかと思いました。そこで解決策として、建物を上の方に持ち上げて、まるでそこが地上であるかのような造りにしたのです。目立つために造ったわけではないのです。構造上からも経済性からも素晴らしい解決法がアーチでした。70mのフリースパンをカバーするために、目の上部にあたるアーチを設計したわけです。それを支える必要があります。ビルも充分な高さがないといけない、それで、バー、レセプションルーム、広間、そういったものを下の方に配置することができました。非常に単純な、そして異例でユニークな構造ですが、こうした斬新な決断を下すことが必要且つ重要だったわけです。このフォルム全てが構造上必要でだから設計されたということです。
ブラジルの詩人が最近、「オスカーは、美は光であることを教えてくれました」と非常に良い文章を書いています。
- カテドラル、1970
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カノアスのニーマイヤー邸、
リオデジャネイロ、1953 -
ニーマイヤー美術館、
クリチバ、2002 -
ニテロイ現代美術館、
リオデジャネイロ近郊、1996 - ラテンアメリカ記念公園 図書館、サンパウロ、1988
ニーマイヤーのプロジェクトの進展は、常に、完全に鉄筋コンクリートとプレ・ストレスト・コンクリート技術の発展とリンクしています。コンクリートほどニーマイヤーに創造の自由を与える素材はありません。その自由こそがユニークで斬新な表現を創り出しているのです。古典派や新古典派のインスピレーションという古い解決法ではあり得なかったことです。コンクリートという素材が全てを可能にし、全てを変化ました。その素材が建築的創造を大躍進させたのです。
私たちはコンクリートの潜在能力に挑み、素晴らしい結果を得てきました。制約に直面した時にも、乗り越えてきました。同時に国としても、デザインや構造設計における国際的評価を得ました。アルジェリアのコンスタンティン大学は、私たちにとって、特に当時22歳であった私には、歴史的な作品であり、マイルストーンであります。60年代末には、構造的にも建設的にも、ヨーロッパの専門家たちが不可能としていた建築です。しかし、ブラジル人のエンジニアと建設業者がいとも簡単にデザインし、さしたる困難もなく完成させたのです。
こうして、わが国に構造設計の独占的な国際マーケットが開かれました。政府が努力することもなく、また私たち建設関係者が商業的な努力をすることもなく、ただブラジルの主な建築家が、ヨーロッパの専門家の要求に追従しないと決めただけです。そして、アルジェリアの大統領はプロジェクトを約束してくれ、建築に協力をしてくれました。そしてその時から、私にとって最もすばらしい関係、専門家としてもまた個人的も、大変に楽しい絆が私とオスカーとの間に生まれたのです。オスカーはすぐに兄であり、義理の父のようになりました。そして数年後、今から30年ほど前に、私はオスカーのメインの構造建築家になりました。
創造のプロセス
ニーマイヤーの芸術的な個性は、構造建築家として一緒に仕事をすると明確にわかります。初期の創造プロセスについてお話しますと、彼はまず、最初のスケッチを見せて、何が重要であるか、スパンの間隔、形状、フリー・ヴォリュームなどについて説明します。そして、私が準備した提案に基づいて、おしゃべりをしながら最高の構造形態を探し、基本的なディメンションを決定します。それを決めるのはとても楽しいことですが、大体20分くらいでもう決まってしまうのです。大きなプロジェクトに関しましても、ほとんどの場合、オスカーが最初に描いたスケッチ、まぁプロポーションですが、最終的にはそれで決まりになります。技術的にも可能性が高く、当を得ているのです。これはまさに直感というか、芸術というか、比類のない構造のセンスを持っていると言わざるを得ません。
オスカーは物凄く仕事が速いのです。クビチェク市長から依頼されたスケジュールでもあったのですが、一晩でパンプーリャのスケッチを描きました。そして彼は、オスカーの生涯の友となり、15年後ブラジルの大統領に就任し、新首都の建築を彼に任せたのです。ブラジル国立劇場の構想はある週末に出来上りました。アルジェリアのモスクは、ベッドへ行く途中で構想が浮かび、テーブルに戻って5分で描きました。ニテロイ現代美術館は、『近代における世界の七不思議の一つ』とも言われていますが、なんと小さなレストランへ行って、注文した魚を待っている間に、ナプキンにサッサッサと、スケッチしたのです。
滅多にないことですが、彼の最初の建築概念を、構造上の制約でいくらか調整を要する場合、あるいは極端な変更・修正を余儀なくされた場合にも、オスカーはその代替案を、いとも簡単に考え付くのです。どんなに複雑なものでも、4回か5回話し合いをすれば解決してしまいます。例えば、ラテンアメリカの記念公園のコンクリートの梁のスパンは世界最大ですが、ある土曜の午前中で決まってしまいました。どんな場合にも、オスカー・ニーマイヤーとのやりとりは、非常にプロセスが明快であり、ほんのちょっとの疑問もなく、苦しみなどもなく、非常に楽しく創造することができます。
97歳の今も活躍中
オスカーは、12月に97歳の誕生日を迎えます。健康に恵まれております。まるで神が、このすばらしい芸術の天才であり、またヒューマニストである彼を守って下さるかのようです。彼の精神は、私と同年代の者と変わらなく若々しいのです。一週間7日、精力的に活動しています。私たちは現在、10以上のプロジェクトをさまざまな地域で開発中であり、建設中です。ブラジリアの国立美術館と図書館、ミナス・ジェライス州政府庁、海上に吊り下げ型のシアラのシー・ミュージアム、ニテロイのニーマイヤーの道、イタイプ本社ビル、パリの平和記念碑、ブラジリアの新しい大学、南ブラジルのボリショイ・バレエ・スクールなどです。私がブラジルに戻ると、たぶん新しい話が待っているでしょう。
これまでに彼のような人はいません。もしかしたらピカソが一番近いアーティストかも知れませんが、オスカーの年には適いませんし、これだけさまざまな、技術的なインターフェイスを持って活発な活動をしていたとはいえません。オスカーというのは生きた教訓です。オスカーはたぶん他の誰よりも多くの建築を手掛けました。そしておそらく、殆ど蓄財はしていません。それを誇りにしています。得たものは全て、家族や友人、また彼の助けを必要としている人たち、彼が手を差し伸べたいと思う人たちと分かち合うわけです。彼は生計を得るために毎日働いています。今なお偏見や暴力、戦争と戦っています。
オスカーは疑いもなく生きた神話であり、唯一の人です。まさに、日本美術協会主催の「世界文化賞」に値する人だと思います。純真なオスカー・ニーマイヤーは、本当に心より感動してこの「世界文化賞」の受賞を喜んでおりました。ブラジル人の国民を代表いたしまして、そして友人としても、私は心より皆さんに御礼を申し上げたいと思います。
パネリスト:ジョゼ・カルロス・スッセキンド(構造建築家)
槇 文彦(建築家)
三宅理一(建築史家)
司会:馬場璋造(建築評論家)
馬場:それではこれから、パネル・ディスカッションを始めたいと思います。
オスカー・ニーマイヤーさんは1907年生まれですが、今のビデオを見ましても、決して古びることのないといいますか、大変新鮮なものを感じたのではないかと思います。しかも、今なお次々と新しい建築を創造していることに、感銘を受けたのではないでしょうか。
日本ですと坂倉準三先生が1904年生まれ、前川國雄先生が1905年生まれ、吉村順三先生が1908年生まれ、まだご存命ですが丹下健三先生は1913年生まれと、大体その辺のところを頭に入れていただくと、関係がお分かりになるかと思います。
そして、スッセキンドさんの大変すばらしいお話で、ニーマイヤーさんの紹介というだけではなくて、建築家と構造家との関係、そしてオスカー・ニーマイヤーさんの持っている大変すばらしい巨匠としての素質、そうしたものがよくお分かりになったと思います。
槇先生も三宅先生も、オスカー・ニーマイヤーさんにお会いになっていますし、槇先生はブラジリアの日本大使館の設計をされています。実は私も、槇先生が設計した次の年にブラジリアを見ていますが、槇先生、いまのビデオとお話をお聞きになっていかがでしょうか。ご感想をお伺いできればと思います。
槇:今、馬場さんからお話がありましたように、僕の世代にとっても、オスカー・ニーマイヤーは非常に身近な建築家で、なお且つ、今でも非常に身近であるということは、彼がこの100年に近い生涯の中で、70年以上に渡って精力的に仕事をされた、そのことがジェネレーションを越えて、「身近さ」というものを与えてくれる最大のポイントではないかと思います。
そして、非常にニーマイヤーに近く、また、ストラクチュアル・エンジニアとして今も一緒に仕事をされているスッセキンドさんから素晴らしいお話があって、益々「現在」という中での彼を語ることができそうです。普通の人ですと、年が離れていると少し違った距離から見るのですが、私たちが身近に感じているということは、やはり、ニーマイヤーが常に「現代」というものを非常に新鮮な形で捉えてきているということでしょう。それが、非常に印象的でした。
もう一つ、ニーマイヤーの建築を、ブラジリアに始まり今日まで幾つもの作品を見て、何か一つ共通したものがあると思いました。彼はどんな仕事であっても、そこに自分の宇宙を創り出そうとしている。その「マイクロコスモス」が、素晴らしい造形とそれをサポートするエンジニアリングの中で創り出されているということですね。日本ですと、我々はブラジルとは対極的な社会条件の中に住んでいます。「マイクロコスモス」を創ろうと思っても、そういうことは簡単には出来ない中で建築をしているのに対して、ニーマイヤーの建築は、どこかより自由な世界の中で彼自身が対話を行える、そういうコンテクストも見逃すことは出来ないし、それが彼自身にまた新しい創造のエネルギーを与えている。ある意味においては非常に羨ましいですね。しかし、他のブラジルの建築家が皆、同じような与えられたコンテクストの中で、これだけのものを創っているかというと、それはないですね。そこはやはり、このオスカー・ニーマイヤーという建築家自身の持っている稀有の才能ではないかと思います。
そんなことが全体にありまして、もう一つ特徴的なのは、彼の建築は非常に「ホリゾンタリティ」が持っている「強さ」というものを極限まで自分の作品の中で創り出そうとしている、それも大変印象的です。僕が初めてブラジリアを訪問したのは、1969年でした。夜、リオから飛行機に乗って、「そろそろブラジリアだ」と言って外を見ると、真っ暗な闇の世界に、ちょうど真珠の首飾りを投げ出したようで、「あ、あそこがブラジリアだ!」と分かってですね。真っ暗な中に着きました。それからもう夜遅かったので、ちょうど三権広場の向かいにあるホテルに到着して、翌日の朝、目が覚めて窓を開けたら、議事堂のコンプレクスが目の前に見えた。その印象は本当に、一生忘れることのできないものでした。その印象の強さというのは、やはり非常に抽象的で、彼が言っている「見たことのない」コンポジションが、水平性と垂直性がまったく考えてなかった形で創られている。それが、あの何にもなかったブラジリアという広大な空間を支配している。象徴を創り上げた。素晴らしいことだと思います。
最後に、ちょっとスッセキンドさんにお聞きしたいことが一つあります。それはですね、我々が少し知っているように、国連のビルは、ニーマイヤーとコルビュジエが、非常に重要な役割を果たしたものですが、もともとニーマイヤーの持っていたイメージは、一つのタワーでなくて、二つのタワーであるということ。あれは1950年の初めで、ニーマイヤーによれば、コルビュジエが頼みに来て、妥協して一つのタワーになった。それから6年経って、58年ですか、ブラジリアに出来たこの議事堂は、二つのタワーですが、やはりこれはもともと彼が持っていた国連のイメージを、今度は自分の思う通りに実現したと、そういう風に解釈していいのかどうか、YesかNoかそれだけお聞きしたいと思います。(笑)
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左からスセキンド、槇文彦、
三宅理一の各氏
馬場:質問もお答えも、面白いものだったと思います。
先ほど、槇さんのお話の中で、「ヴァーティカルじゃなくて、ホリゾンタル」とお聞きして、「ああ、なるほど」と思いました。寧ろ「自由な造型・曲線」と言われていたのを逆に「ホリゾンタル」で捉えるという、大変面白く、また意味深く拝聴いたしました。
それでは三宅さん、いかがでしょうか。
三宅: 私も、ブラジリアには6年ほど前に伺いました。よく昔の本には、「渇ききった街」とか「モダニズムの悪い面が出ている」とか書いてあったのですが、緑が成長していて、緑と建築とのバランスが取れている、というのが街全体の印象でした。それから街の真ん中に行くと、一連のニーマイヤーの建築がズーッと広がっていて、非常にスペクタキュラーなところであるというのが最初の印象でした。
その時に直接ニーマイヤーさんにお会いして、色んな話を伺って、二つ今感じていることがあります。一つは「時代」の問題ということ、もう一つは「言語」の問題ということです。「時代」の問題というのは、1950年代からちょうど60年にかけての時代にこのブラジリアが出来たということ。いわゆる近代建築が一つのピークを迎えていて、世界中にモニュメントというのでしょうか、後世に残る近代建築のすばらしい作品群が出来ていった時代だと思います。これは日本でもアメリカでもそうだと思いますし、世界中でそういうことがあったわけですが、この「首都を創る」というその構想そのものが意表を突いているという印象を私は持ちました。
「首都移転」というのは19世紀から続いている非常に長い、100年来の課題であったわけです。それを漸くクビチェク大統領が決断をして、この地に建築を始めた。これだけの大きいものを創り上げていったということに、この時代のある種の権力が集中し、デザインが集中し…、その醍醐味と言いますか、色んな意味での「集中」というものを感じましたね。
それが良かったのか悪かったのか、それは後世が判断するということだったわけですが、人類のために残された世界遺産として、ブラジルの人そして世界の機関がそれを認定したのですね。実際行って見て、「ああ、こういうのがまさに20世紀の都市だ」と感じるようになってきたと思いました。面白いのは、ニーマイヤーという人物は、そこでピークを迎えて沈降してしまわなかったということ、それが非常に印象的だったわけです。しばしば建築家には一つの時代を迎えた後は、沈んでいくという、ものの理というのがよくありますけれども、恐らくニーマイヤーのタイプはですね、ある自分の持っている根源的なイメージ、槇先生がマイクロコスモスとおっしゃいましたけれども、その根源的、或いは原発的なものに常に突き動かされていくタイプの建築家であると思います。
モダニストの建築家にはもう一つ、ある種の「社会的な課題」を設定して、それを時代ごとにリセットしながら行くというタイプがありまして、この時代は両方をやっていたみたいな感じがあるのですが、恐らくニーマイヤーのやり方というのは、そういう社会の問題を中に取り入れてというよりは、自分の内側から出てくるあるイメージ、寧ろこれは「生命」と言った方が良いのでしょうが、その人の「生命」そのものが、地球の中に実現されてくるという印象を持ったわけです。即ちそれは、そこに彼が創ろうとしている一つの「言語の体系」みたいなものがあって、例えば大地というもの、それから空があって、太陽があって、或いは海がある、そしてその中で「生命」が生まれる、単なる「風景」ではなくてその中で「生命」が生まれる、こういうことを彼自身の芸術的な行為の基本としていると常に感じるわけです。今なお、例えばクリチバの美術館のように、非常に強い形式というものを求めて、殆ど妥協しないでやっているところに非常に強い印象を持ちました。
馬場: それは、やっぱりサプライズ、建築家は驚かせなくてはいけない、という辺りの問題があるのかも知れないですね。今の三宅さんのお話の中で、スッセキンドさんに伺いたいのですが、「社会的に受け止める」ことと「自分自身をインスパイアする」ことですが、これがやはり建築家が持続して行く条件だと思いますが、そのことにつきましてはニーマイヤーをどのようにご覧になっておられるでしょうか?
スッセキンド: オスカーに対するすばらしいコメントをお聞きして感動しておりました。私にとっても、オスカーは非常に近しい存在であると同時にミステリーでもあるのです。神秘なのです。オスカーが一体どこからそのインスピレーションを得るのか、未だに神秘のヴェールに包まれております。オスカーは生命、人生というものをこよなく愛しております。常に一瞬一瞬、すべての生命をこよなく愛しく思っているのです。そして、このミュージアムに関しても、すべてのディテールを生命という観点から、妥協することなくチェックするのです。彼は同時に活動家でもあります。活動家であることから、ジャン・ポール・サルトルなどのような、素晴らしいパワフルな人たちと常に親しい関係にありました。アーティストたちとも交流を重ねました。私の記憶に強く残っているのですが、丹下健三氏が訪れた時には非常に饒舌でした。沢山のことを、世界で一体何が起こっているのかということについて、尽きないディスカッションをしておりました。
60年代末、彼は実際に亡命せざるを得なかったわけですが、フランスそしてイタリアへ行きました。逆にそれが国際的なキャリアを進展させる機会にもなりました。ですから彼は哲学者でありますし、歴史も熟知しております、彼自身がルネッサンスなのです。そのような人生を生きてきたのです。実践してきたわけです。彼は決して屈することがありません。そして、常に新しい目で見ることができ、妥協することがありません。どのプロジェクトも斬新です。異なっております。それが刺激的なのです。これが私にとってできる限りの説明だと思います。説明できないことをいま説明しようと努力したのですけれども。
槇: それが自分に直接的にどういう影響を与えるとか、与えないとか、そういうことは抜きにして、こういうすばらしい建築家がいる、今も仕事をしているということは、非常に我々にある種の勇気を与えてくれる、そのことに尽きると思いますね。そういう人がいるという実感を与えてくれている。それが今の彼のパーソナリティ、或いは生活とも結び付いているし、現実に我々は彼の作品を通して、それを感じることができる。羨ましいといえば非常に羨ましいし、「そういう人がいる」という考えを特に持ちました。
馬場: それが決して過去ではなくて、現代を生きているということですね。
槇: そうなのです、そういうことですね。一緒に生きて、しかもこういうものを創ってくれているということです。
馬場: 確かにニーマイヤー、槇先生、スッセキンドさん、年代はそれぞれ離れているけれども、ほんとうに何か同じ時代に生きている、という感じで色々とお話をして頂いていると思います。確かに世代を超えているという意味が、ニーマイヤーの一つの大きな価値だと思いますが、三宅先生、その辺はどうお考えでしょうか。
三宅: 私の場合どうしても歴史的にものを見る癖がついていまして、彼は1907年に生まれていますけれども、彼が持っているかなりの部分は19世紀を引きずっているわけですね、そして21世紀ですから、実質的には3世紀に渡って価値観というものを繰り広げていると思います。その3世紀というのが、我々にも手の届く範囲であるってことが分かってですね(笑)、人間というのはやっぱり300年くらい、或いは250年、つまり江戸時代全体くらいを、自分の持っている生活圏というのでしょうか、生活時間圏として持っているんだなぁということを感じた次第です。
馬場: いま「年代」という意味で思い出しましたが、イギリスのハイドパークのケンジントン・ガーデンに、サーペンタイン・ギャラリーという2ヶ月間だけのギャラリーを、2000年にザハ・ハディドが造って、次の2001年にはダニエル・リベスキンド、2003年には伊東豊雄、そして2004年に、オスカー・ニーマイヤーが造っている、世代の差は物凄く変わるけれども、それぞれ全然その差を感じさせないような新鮮さを持っていたのを、今の話から思い出しました。
皆さんからご質問がおありと思います。特に、構造と建築との関係、或いはニーマイヤーの持っている創造の秘密みたいなことで、ご質問がありましたら是非挙手していただいて、何か圧倒されてしまって、声が出ないかとも思いますが(笑)、いかがでしょうか。
スッセキンド: 私の講演を大変よく聴いて下さいまして、ありがとうございました。オスカーは構造に対する素晴らしい感覚を持っているのです。「建築とは何か」「構造とは何か」、この二つは同じことを質問しているのです。彼の言葉を借りますと、「建築は構造を見せなくてはいけない。常に構造が赤裸々になっていなくてはいけない」と言っております。カテドラルがまさにその象徴です。構造は私の前任者が完成させています。シンプルな構造です。これは16のピースで構成されており、それが水平にそれぞれお互いに支えあっています。構造の計算はといいますと、5分で終わってしまっています。5分以上は要りません。1年か2年、大学で建築学んだ者だったら計算がすぐに出来てしまうわけです。素晴らしいですねこれは。ちょっと長くなりますが、私はいつもこのブラジリアのカテドラルを見ると畏怖の念に駆られます。どのようなカテドラルでも、普通は何千ものピースによって構成されていると思います。複雑な構造を持っているかも知れません。しかし、このカテドラルは16のピースだけで構成されていて、強い、強烈な印象を与えるのです。カテドラルの中には空間が限りなく広がっております。まるで天国を見上げるように、そして神を見上げるような感じです。オスカーは決して宗教心の篤い人間とはいえません。しかし、彼はこれを設計した時に一つ心したことがあります。“すべてのカテドラルは、古代のカテドラルも、光から、外の光から、太陽から、暗闇の中から生まれてきた”ということです。それで、わざわざ暗いトンネルを造ったのです。トンネルを通ってカテドラルの中に入りますと、突然光が広がるのです、突然空が広がるのです。素晴らしい強烈な印象を受けます。3人の天使がその天井から吊り下がっているのが見えます。果てしなく天国が広がっているようです。すばらしい質問ありがとうございました。こういう話につなげることができまして、感謝しております。
馬場: 確かに、直感的に、ギリギリの構造に挑戦するセンスがニーマイヤーの中にあるのですね。それと同時に、スッセキンドさんがそれをちゃんとリアライズするということの素晴らしさもあると思います。
会場からの質問: もう少し現実的なお話を伺いしたいのですが、コストについてお聞かせください。
スッセキンド: オスカーは小さい家とか住宅ではなくて、美術館、博物館、パレス、それから公共施設、公共の広場、等々を依頼されてきました。スケールが大きいわけです。ですから建築としては、いわゆるモニュメントであると批判を受けることもあります。非常に記念碑的なプロジェクトをやってきたという風に言われて、私もそれは感じております。例えば議会、最高裁、大統領府等を対象にしてきていますので、オスカーのプロジェクトの図面を見ますと、これはブラジルという国のアイデンティティなのです。ブラジルの国家や国旗よりオスカーの作品の方が、世界のニュースや紙面に登場する回数が多いと思います。大統領府を例にとりますと、「こういう仕事でうらやましい」という風に言われます。「鉄筋もたくさん入っているし、恐らく非常に高いだろうな」という批判もあります。一般よりは高いと思います。しかし大統領府の場合はやはり「美しさ」と「驚き」と「感受性」、特色のある建物ということが重要です。私はオスカーの哲学を申し上げているのです。大きなスパンを設けることが余儀なくされる、より高価な構造が必要であるとしても、必ずコスト、予算とのバランスをとるようにしております。素材に関してはできるだけ簡素化すること、実際の建材としてコンクリートをメインに使います。90mのスパンであっても70mのスパンであっても、「美」と「驚き」、そして「魂、ソウル」というものを妥協することなく、コストの面に関してもきちんとそういった意味のバランスをとったかたちで作品を作っているということです。
馬場: コストに縛られる建築ではなくて、社会の要求するものを創るのが建築である、だからニーマイヤーの場合には、コストというのはもちろん必要だけれども、そんなに大きな要素とは考えていないということが言えると思いますね。最後にまた、槙先生と三宅先生に一言ずつお願いします。では三宅先生から。
三宅: 私は彼の建築、全体のシナリオというのでしょうか、建築の概念そのものが大変好きですね。彼はヨーロッパに長い間、一種の亡命で行っていまして、戻ってきてからある種のデプレッションがあったという気がしているのですね。それは建築のイメージが、より暗いというのか、悲しみに満ちた南米という感じ、南米の持っている、彼が感じているある種の「不可避の運命」みたいなものをずっと感じて創っていた時期があって、それが吹っ切れたのが今ぐらいなのかなと僕は思っています。これは彼自身が持っている感情ではなくて、ある種の「世界像」というものが、如実にこの建築に出てきている。それを見ているだけで、南米ブラジルがそこに現存している、という感じがします。だからこそ、何かアカデミーを提示したい、というのはあるのかも知れないですね。
馬場: それでは槇先生、最後に。
槇: 先ほど三宅さんが触れられましたブラジリアの植生の勢い、最初に僕が60年代に行った時はまだそれほどでもなかったのですが、97年に行った時に、やはり凄いなと思いました。ちょっと我々のスケールを越えるヴェジテーション、例えば10階建てくらいの建物に負けないような高い樹が育っている。駐車場に行くと、ちょうど駐車場の傘ができるくらい、樹がみんな影を作ってくれている。樹の場合は自分でカンテレバーを造っているわけですね(笑)、コンクリートなしで。何かこう、我々が普段感じていない自然のエネルギーというものを非常に強く感じました。オスカー・ニーマイヤーは、やはりそういう独特の規制、地形、ヴェジテーション、そういうものからある種のエネルギーを受けて、次にそれを自分のクリエイションの源にすることのできた建築家という感じもいたします。より根源的なもの、地域、文化も含めてですね、そういうところから様々なものを得ている、それを自分なりに発想し続けている建築家だと思います。
馬場: 私もいまお聞きして、また映像を見せていただきまして、自然の摂理を心得ている、建築の詩人であるという感じがオスカー・ニーマイヤーに対していたしました。まだまだお話もお伺いしたいし、質問もお受けしたいのですが、時間も過ぎましたのでこれをもちまして、このパネルディスカッションは終わらせていただきたいと思います。スッセキンドさん、槇先生、三宅先生、どうもありがとうございました。