第11回
1999年
建築部門
Fumihiko Maki
槇 文彦
モダニズムの思想を受け継いで、洗練されたさわやかな建築空間を創り出し、世界的に高い評価を得ている、日本を代表する建築家の一人。土地の特性を生かし、奥庭や路地など、日本的空間を織り込んだ作品でも有名である。
1928年東京生まれ。52年、東大工学部建築学科を卒業後、クランブルック美術学院、ハーバード大学大学院を終了。アメリカの大学で教壇に立ち、65年帰国、槇総合計画事務所を設立した。主な作品は日本建築学会賞を受けた「名古屋大学豊田講堂」(1959)、「藤沢市秋葉台文化体育館」(1985)をはじめ、「京都国立近代美術館」(1986)、「幕張メッセ」(1989)、「ヒルサイドテラス」(1969、92)、大分県中津市の「風の丘葬斎場」(1997)、海外では「イエルバ・ブエナ・アート・センター」(サンフランシスコ、1993)、「イザール・ビューロ・パーク」(ミュンヘン、1995)など。
79~89年には東大教授もつとめ、93年プリツカー賞など、数多くの栄誉を受けている。
略歴
1979年から槇文彦は東京大学教授として教鞭をとり始め、事務所とは別に研究室の活動にも精力的に取り組む。その成果はたとえば東京の都市構造を読み解いた「見え隠れする都市」のような著作に結実される。都市空間に「奥」の構造を読み取り、時間と空間の堆積があってはじめて豊かな都市が形成されるということを主張する。都市開発が進み、安易なビル建設が進行していく状況の中で、槇は歴史の蓄積を重んじ、そのうえでモダニズムのもっとも良い部分を継承することを説いたのである。この考え方をもっとも具体的に表しているのが、1967年から今日まで継続的に建設を進めている代官山のヒルサイドテラスである。隣接する緑豊かな屋敷地を借景としながら、道に沿って集合住宅、店舗、広場を継起させる。混乱した東京の居住環境に対して、土地所有者と協力しながらゆとりある都市の住まい方とデザインがいかに関連するかを示してみせた。
1980年代以降の槇は、前にも増して国内外で多忙な活動を行なっている。スパイラル(1985)、京都近代美術館(1986)、サンフランシスコ・イェルバ・ブエナ資格芸術センター(1993)等の文化美術施設、幕張メッセ(1989)、東京都体育館(1990)、ミュンヘン・イザール・ビューロパーク(1994)等の大規模空間、慶応義塾大学藤沢キャンパス(1990)等のキャンパス計画などきわめて多産な時期でもある。そこで培われた方法は、都市の文脈を読み取り、土地に蓄積された記憶を探った上で、建築に表情を与え、情景を構築するところにある。建築の大小にかかわらず、人間の直接触れることのできる部分から、遠景としての風景にいたるまで、きめ細かくデザインを行ない、さらに今日の技術を有効に用いてそのディテールを決定する。その究極の目標は、建築・自然・人間との間に本来的な交感を取り戻すことといえるだろう。
このようなクリエイティブな活動によって、槇文彦はプリツカー賞、世界文化賞など多くの賞を受賞している。また、彼の事務所から育った建築家も多く、長島孝一、栗生明、大野秀敏、池田靖史など現在第一線で活躍中の人間が良い意味で槇文彦の方法論を継いでいる。
三宅理一
略歴 年表
アメリカへ留学、建築とアーバンデザインを研究
同大大学院デザイン科のホセ・ルイス・サートの許で学ぶ
スキッドモア・オウイングス・メリル建築事務所入所
レイノルズ賞受賞 (東京・スパイラルビル)
主な作品
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代官山ヒルサイドテラス
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東京キリストの教会
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幕張メッセ新展示場・北ホール
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風の丘葬斎場
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オフィスにて