ジェルジ・リゲティ

György Ligeti

プロフィール

  電子音楽によって膨大な音を重ねて新しい音を作るなど新しい実験的手法で常に話題をまきながらも、人間的な響きで人々を魅了している現代音楽の巨匠の1人である。
1923年、ハンガリーのトランシルヴァニア地方(現ルーマニア、ティルナヴェーニ)生まれ。クルージ音楽院で学び、56年まで母校で教える。このころ、ルーマニアやハンガリーの民族音楽を収集。民謡の編曲などは出版できたが、その他の作品は政治的理由で出版も演奏もできなかったという。雪解けの時代、西欧の前衛音楽を知り、56年のハンガリー動乱を機に亡命、ウイーンに移る。ケルンの電子音楽スタジオで、シュトックハウゼンらとともに活動、自己の作風を確立していく。60年、ケルンで開かれたISCM(国際現代音楽協会)音楽祭で「アパリシオン」(1958-59)を初演し、国際的に認められる。
また、自身が“ミクロポリフォニー”と呼ぶ手法で書かれた「アトモスフェール」(1961)は、87個もの膨大な声部を積み重ね、個々の音の形態を消し、塊としての響きの変化のプロセスを描き出し、現代音楽史に残る作品となる。これはヨーロッパの作曲界を驚かし、映画「2001年宇宙の旅」にも使われている。また78年ストックホルム王立歌劇場での初演以来、各地で演じられているオペラ「大いなる死者」(1978)などの代表作がある。

詳しく

  ジェルジ・リゲティの創作を語るには、その出自が欠かせないし、20世紀という時代を語ることにもなるだろう。

リゲティは1923年、トランシルヴァニアで生まれたユダヤ人。当時ハンガリーだったこの地域は現在はルーマニア領になっているが、ルーマニア人、マジャール人(ハンガリー人)、ドイツ人と3つの民族が共存し、歴史の変遷の中でさまざまな国に支配されてきた。第二次世界大戦がはじまるとドイツの支配下に置かれる。
戦後、リゲティは、作曲家のバルトークやコダーイを生んだブダペスト音楽院で作曲を学んだが、旧ソ連の影響下にあったハンガリーでは民謡の編曲など限られた創作の出版しかできなかった。しかし、そうしたなかで彼はひそかに『弦楽四重奏曲第1番』(1954)など独自の作曲を続けていた。
1956年12月、ハンガリー動乱が起きる。市民の蜂起は結局、旧ソ連の力で制圧されてしまうが、リゲティはこれを契機にウィーンに亡命する。カールハインツ・シュトックハウゼン、ゴットフリート=ミヒャエル・ケーニッヒらとケルンの電子音楽スタジオで実験をはじめ、彼特有の作曲法の基礎を確立した。
そのなかでも目立ったのは、さまざまなピッチの群れが緊密に集まった「クラスター(音群、音塊)」の使用であった。楽器または声を個々の音色のグループに分けることによってリゲティは、テクスチャー(音の織地)の静的な「雲」をつくり出した。そしてその雲のなかで、ほとんど感知されないほどの細かな変化がつくり出される。彼はこのように音響を微細に変化させる技法を「ミクロポリフォニー」と呼んだ。この技法の忘れられない効果は、87の声部を重ねた『アトモスフェール』(1961)にみられ、ドナウエッシンゲン国際現代音楽祭(ドイツ)で初演されたこのオーケストラ曲は、リゲティをヨーロッパ前衛音楽の第一線に押し出した。
故スタンリー・キューブリック監督の『2001年宇宙の旅』(1968)は映画史に残る名作だが、リゲティの名前が一般に知られるようになったのはこの映画ゆえだ。映画の中の音楽としてはリヒャルト・シュトラウスの交響詩『ツァラトゥストラはかく語りき』が知られているが、リゲティの『アトモスフェール』は主人公が光の洪水のなか、より高次の世界へと導かれるクライマックス・シーンで効果的に使われている。
『アトモスフェール』や『レクイエム』(1963-61)や『ロンターノ』(1967)などオーケストラの響きを音の塊と化すこれらの作品についてリゲティは、「電車がすれ違っているとき、自分の電車の窓から反対側の電車の窓の、向こう側の風景が見えるようなもの」と説明したことがある。電車のスピードが速いため、電車そのものや窓と窓のあいだの柱や壁など細部は見えなくなってしまい、電車の先の風景が見える、目の錯覚を起こす。声部を重ねた個々の音が消え、塊と化した音が風景になるのだ。
リゲティの特異な作品に『大いなる死者』(1978)がある。『車の警笛前奏曲』ではじまるこの作品は、車が実際にステージに登場し、エキセントリックな歌手たちは歌っているうちに咳き込んだり、どもったり、しゃっくりをはじめたりする。リゲティはこれを「反・反オペラ」と呼んでいる。
近年の作品はアフリカやインドなど非西洋の民族音楽の可能性を生かした、リズムをテーマにした作品が多い。たとえば『ピアノのためのエチュード』(1985)。1小節の中を8分の3拍子と8分の5拍子に分けたメロディーを繰り返し、右手が途中で8分の7拍子に変わり、複数のリズムが生まれていく。このポリリズムは複雑だが、聴覚的には単純に聞こえる。
1970年代を超え、その評価は揺るぎないものとなった。1997年末から作品のほとんどを網羅する大規模なCDシリーズがリリースされはじめている。第3回世界文化賞授賞式での来日以来、日本との縁も深まっている。1998年5月にはリゲティを主役として「コンポージアム1998」という現代音楽のフェスティバルが東京で開かれた。このとき日本を代表する作曲家、故・武満徹の名前を冠した作曲賞の単独審査員も務めた。

江原和雄
 
2006年6月12日、ウィーンで逝去

略歴


1923
5月28日、ハンガリーのヂチェーセントマールトン(現ルーマニア、ティルナヴェーニ)に生まれる

1945-49 ブタペスト高等音楽院で作曲をシャンドール・ヴェレス、フェレンツ・ファルケスに学ぶ

1949-50 バルトークにならい、トランシルヴァニア地方のルーマニア、ハンガリー民謡を蒐集、民族研究の著書を出す

1950-56 ブタペスト高等音楽院で和声、対位法、音楽分析を教える

1956 夏ウィーンを訪れ、西側の新しい音楽に触れる。10月のハンガリー動乱で亡命を決意。12月ウィーンへ亡命

1957-58 ケルンの電子音楽スタジオで活動

1959-72 ダルムシュタット夏期講習で講師をつとめる

1961 国際現代音楽協会音楽祭(ケルン)で「アトモスフェール」を初演。その新しい技法が、ヨーロッパの音楽界を驚かす

1968 「アトモスフェール」がスタンリー・キューブリックの映画「2001年宇宙の旅」に使われ有名になる

1972 アメリカ、スタンフォード大学に招かれ滞在、作曲

1973 ハンブルク音楽大学作曲家教授

1985 アルチュール・オネガー国際音楽賞

1991 高松宮殿下記念世界文化賞・音楽部門受賞

1997 オペラ「Le Grand Macabre」新版、ザルツブルクで初演

2006
6月12日、ウィーンで逝去

主な作品 1960   アパラシオン
1961   アトモスフェール
1961-62 ヴォルーミナ(Org)、改訂1966
1962   アヴァンチュール(3人の独唱者と7人の器楽奏者のための)
1963-65 レクイエム
1966   ルクス・エテルナ
1967   ロンターノ
1968   コンティヌウム(Cemb、改訂版2Hro)、改訂1974
1969-79 室内協奏曲(13人の奏者のための)
1976   記念碑・自画像・運動(2Pf)
1978   ハンガリアン・ロック
1982   ホルン三重奏曲
1983   合唱曲「マジャールの研究」
1985   ピアノのためのエチュード第1巻
1985-88 ピアノ・コンチェルト
1989-94 ピアノのためのエチュード第2巻
1995-   ピアノのためのエチュード第3巻
1996   オペラ「大いなる不吉」新版
1998-99 ホルンと室内楽のためのハンブルク協奏曲
2000   メッゾ・ソプラノと打楽器のための「Sippal, dobbal,
nadihegeduval」