レム・コールハース

Rem Koolhaas

プロフィール

レム・コールハースは1978年、都市の変貌をテーマにした著作「錯乱のニューヨーク」で大反響を呼んだジャーナリスト出身の異才の建築家。その思想と実践は常に世界の建築家を挑発してきた。オランダ・ハーグのダンス劇場、ラスベガスのグッゲンハイム美術館、プラダ・ニューヨーク店、フランス・リールの再開発など、各国で活躍している。福岡にネクサス集合住宅がある。2000年にプリツカー賞受賞。 

詳しく

レム・コールハースはジャーナリスト出身の異才の建築家である。1978年に出版した初の著作『錯乱のニューヨーク』で、大都市の混沌と理性を描いて大反響を呼んだ。現在も、その思想と作品は世界の建築家を挑発し、影響を与え続けている。
  少年時代をインドネシアのジャカルタで過ごす。ジャーナリストと映画の脚本家としての体験が、建築家になった現在、きわめて重要な役割を果たしているという。
  「私はプロジェクトを計画する土地の特殊性を慎重に考慮します。適当な場所に適当に決めた建物を建てることはありません。建築は芸術であると同時に、ある意味でジャーナリズムの所産ともいえるものです。脚本家の体験から、建築は必ずしも固定された芸術形式ではなく、現代の文化に異なるエピソードを持ち込み、そのエピソードのもたらす緊張感を操って結末を導く、そんな建築ができると思っているのです」
  その作品は、巨大な都市開発プロジェクトから個人住宅、ファッション店まで多岐にわたるが、主宰する「都市建築事務所」(OMA)の名が示すように、最大の関心は「都市」に関わる建築にある。
  その建築理念は、必要性を徹底的に分析することによって初めて空間の表現に向うという点に要約される。フランス・リールの巨大な会議場兼展覧会ホール「コングレクスポ」、ロッテルダムの美術館「クンストハル」などが典型的な例だ。そこでは大理石のような高価な素材は排除され、カーボンの波板のような廉価でありふれた素材が使用されている。同時に、作品自体が現代を批評するという効果も生じている。
  現在進行中のプロジェクトは世界中に数多く、今秋から来春にかけて、ベルリンのオランダ大使館、ポルトガル・ポルトのコンサートホール、シアトルの公立図書館などが完成。今年から北京で中国中央電視台(CCTV)本社ビル(2008年完成予定)も手掛けており、コールハース建築の真髄が見えてくるのはこれらからである。

略歴


1944  オランダのロッテルダムに生まれる

1952-56 インドネシアのジャカルタで過ごす

1962-72 ジャーナリスト、映画脚本家として活躍

1968-72 ロンドンのAAスクールで建築を学ぶ

1972-78 米国コーネル大学等で研究活動

1978 「錯乱のニューヨーク」を出版
オランダ国会議事堂拡張計画の設計コンペで1等

1980 OMA設立(ロッテルダム)

1987  ダンスシアター(オランダ・ハーグ)

1991  ネクサスワールド・ハウジング(福岡)

1992 ロッテルダム美術館(オランダ)

1994 コングレクスポ(リール・グラン・パレ、フランス)
ハーバード大学教授

1995 「S, M, L, XL」を出版

1997 ユトレヒト大学エデュカトリアム(オランダ)

2000 プリツカー賞

2001 グッゲンハイム美術館(アメリカ、ラスベガス)
プラダ・ニューヨーク店(ニューヨーク)

2003 高松宮殿下記念世界文化賞・建築部門受賞

1

レム・コールハース 建築を語る


--高松宮殿下記念世界文化賞 受賞記念講演会--2003年10月24日 16:00~17:30 於:鹿島KIビル


皆さんようこそ。私は再び来日できてとてもわくわくしています。景気回復の兆しもありますので、90年代のはじめにスタートした「福岡ネクサス」の仕事が続けられるようにと願っています。

 

はじめに
今日は、最近の作品をご紹介するつもりですが、その前に世界の状況についても少しお話したいと思います。9.11(セプテンバー・イレヴン)は大変重大な出来事でした。初めは、文化や政治制度にかかわりなく、世界中に等しく影響を与えたようです。重大な出来事という点では世界のコンセンサスがあり、一時はある程度の連帯感も生れたと思います。しかし周知の通り、色々なことが起こり、特に、多分、イラク戦争のためにその連帯感は揺らいできました。

9, 11については、何が起こったのか、その後どう変化していったのか、色々な見方ができると思います。アメリカが言うように、世界を変えた悲劇と考えることもできますし、皮肉で言うのではありませんが、別の可能性を開いたとみることもできるのです。
2001年以前は、アメリカとヨーロッパにはある種自然な、口に出すことはありませんが、無意識ともいえる連帯感がありましたが、アジアは別の領域でした。今では、事件が起きれば、ヨーロッパにもアジアにも影響を及ぼすのは当然であり、さらにその結果として、両者に連帯感が育ち、関係も強固になるとさえ言えると私は思います。

EUは疑いもなく、確実にそして組織的に東に向かって拡張を続けており、加盟国はどんどん増え、ボーダーラインはロシアにシフトするでしょう。ロシアがこの10年、あるいは15年の間にEUの一員になる可能性も想像に難くありません。その時には、ヨーロッパとアジアが国境を接します。そして、ヨーロッパと中国が直接つながるという新しい状況は、とても興味深いことです。世界がどのように考えるのか、かなりの影響を与えると思います。

ご存知と思いますが、特にこの5年間、私たちのオフィスは研究・調査と理論構築を積極的に行い、同時にもちろん建築の仕事もしてきました。2001年以降は、政治的な状況だけでなく、私たち自身の状況もすっかり新しくなりました。といいますのは、私たちはいくつもの非常に大きなプロジェクト・シリーズに携わってきましたが、それらが完成しつつあります。私たちにはビルを建てるという自信、それも理論的にインパクトのあるビルを建てるという自信があります。最新の仕事をご紹介するために、まず竣工したものばかりの建物、あるいは竣工間近な建物を4つ簡単にお見せします。それから中国に話しを移して、中国という国にインパクトを与え、幸いにも実現したアイディアについてお話します。


©The Sankei Shimbun 2003

©The Sankei Shimbun 2003

 

2

最新の作品について
イリノイ工科大学
最初のプロジェクトは、最近竣工したシカゴのIIT(イリノイ工科大学)の学生センターです。大変に重要なサイトです。といいますのは、ミース(Mies van der Rohe )が設計した建物があり、おまけに騒音のひどい高架鉄道が走っているのです。プロジェクトが最初にすべきことは、高架鉄道の防音対策でした。そのためにプロジェクトの上にトンネルを通し、その下にプロジェクトを造るという工夫をしました。プロジェクトは建物とインフラとの関係の中で成立するのです。ご覧のように、トンネルには、大きな視覚効果とインパクトがあり、広がりもあります。厳しいインフラの要素を取り込んで、建物はより豊かになりました。ぎりぎりまで踏み込むことで、ビルの建築はますます面白くなります。

このプロジェクトのユニークなところ、大いに議論を重ねたところは、ミースの建物をもっと大きな枠の中に組み込むという点です。それが学生センターです。ご存知のように、アメリカでは、都市にある多くの学校は悩みを抱えています。IITという特別なキャンパスでも、学生数はこの30年間で50%も減少しました。ですから、学生を惹きつけることも、この建物の目的なのです。
私たちは建設予定地へ行って、学生が寮とキャンパスをどのように移動しているかを調査し、記録をとりました。そしてこの移動自体をビルのメイン・テーマにしたのです。ビルは実に多くの色々な問題の集合体です。オーディトリアムがあり、ミーティグ・ルーム、ストア、ブックストア、管理事務所、カフェテリア、ある種の娯楽センター、研究センター、学部クラブなどがあります。この意味で、このビルは実に多くの要素をたった一つのボックスに入れてしまう現代アメリカ建築と似ています。一般に建築家は避けて通るのですが、ある種のボックス建築を試みて、色々と戦略を展開しました。

ミースの作品との共同作業は刺激的でした。ここにボーダーラインのようなものがありますが、互いのビルの中に入り込んでいます。私たちは単なる継続を願ったのではなく、尊敬を表したかったのです。大変に長い間、ミースの遺産の永久保存を望む人たちと戦いました。最終的には、ミースと私たちの関係は尊重され、二つのビルが一体になってミースのビルはリニューアルされました。

 

イリノイ工科大学 キャンパスセンター イリノイ工科大学 キャンパスセンター
イリノイ工科大学
キャンパスセンター
(シカゴ、1997-2003)
©OMA
イリノイ工科大学
キャンパスセンター ©OMA

 

3

シアトル公立図書館

2番目のビルはまだ完成していませんが、アメリカのシアトル公立図書館です。写真では実際より非常に贅沢に見えますが、そんなことはありません。5万㎡あり、シアトルの中心地にあります。シアトルはまっすぐに広がった街です。私たちの建築の特徴だと思いますが、主として建築の不可欠な部分を構造上で考える能力がよく出ていると思います。ご存知のように、いや知らないかもしれませんが、シアトルは地震地帯です。この場合は、ビルの全ての外壁が建築上重要な役割、即ち、耐震性は外壁によって保たれているのです。ですから、外壁は単なる外壁ではなく、構造そのものでもあるのです。
私たちは世界各国で働いていますので、その土地の潜在的なものを掴もうとします。アメリカの場合はもちろんスチールです。ですから、このビルの構造は完全にスチールでできています。

在ベルリン・オランダ大使館
3番目はちょうど竣工したばかりのベルリンにあるオランダ大使館です。大使館はほとんどが西側のベルリンにありますが、エクサイティングなことに、オランダ大使館はかつて共産主義であった東側のベルリンあります。ということは、貧しい地域にあるわけです。皮肉なことに、私たちヨーロッパ人が、分割されたヨーロッパの街にビルを建てたのはこれが初めてのことです。ベルリンには今でも非常に強いドグマがあり、つまりビルはブロックの一部でなければならない、つまり利己的な存在であってはならないのです。そこで、私たちはうまく交渉して、ある意味で二つの要素、L型の壁と立方体から成るブロックを造って良いことになりました。両方とも大使館の一部であり、ブロックで両方の連続性を創り出し、オランダ大使館の存在を前面に押し出そうとしました。
ここは大使の部屋、特別室です。街に浮かんでいるようです。L型のビルが見えます。壁は透明なので、街に囲まれているような感覚があります。壁を通して何でも見えますが、正確にありのまま見えるものは何もないのです。

ポルト・コンサートホール(カーサ・デ・ムジカ)
4番目のビルは間もなく竣工予定ですが、ポルトガルのポルトというまったく異なった環境にあります。建築は必然的にスチールからコンクリートに代わります。ここでは今でもコンクリートを使っている、これはとても刺激的です。ご覧のようにコンサートホールです。日本が良い例だと思いますが、コンサートホールはシューボックス型がベストであるという音響上のコンセンサスがあると思います。私はそれに全面的に賛成というわけではありませんが、今回はその仮定の上に立って、わくわくするようなシューボックスを造ろうとチャレンジしました。
通常はシューボックスが構成上の中心になり、その周囲をパブッリク・スペイスが取り囲んでいます。しかしながら、私たちはパブリック・スペース用の巨大な空間を作り、そこを通る抜けるトンネルのようなシューボックスをつくりました。ビルを通りぬけたシューボックスの形をした空間、空洞であり、一方の側からポルトの中心にある広場の景観がみえますし、反対側からはポルトの海が見えます。
私が知っている限りにおいて両サイドが街に向かって広く開かれている唯一のコンサートホールです。ビルは方角によってまったく違って見えます。つまり、このビルの形はたった一つではないのです。かなり小さいホールですが、街の中に埋没してはいません。

 

シアトル公立図書館 (シアトル、1999-2004) ©OMA シアトル公立図書館 ©OMA 在ベルリン・オランダ大使館 (ベルリン、1997-2003) ©OMA
シアトル公立図書館
(シアトル、1999-2004)
©OMA
シアトル公立図書館
©OMA
在ベルリン・オランダ大使館
(ベルリン、1997-2003)
©OMA
ポルト・コンサートホール (カーサ・デ・ムジカ) (ポルトガル、1999-2004) ©OMA ポルト・コンサートホール (模型) ©OMA
ポルト・コンサートホール
(カーサ・デ・ムジカ)
(ポルトガル、1999-2004)
©OMA
ポルト・コンサートホール
(模型) ©OMA

4

建築と市場経済
この20年間に重要な変化がありました。建築はもはや公共という分野やその延長上のものではなく、国や都市、あるいは公共グループを代表する組織のものでもないということです。もっと世界的なスケールのものであり、市場論理を採りこんだもの、個人の興味を追及するものになりました。建築家の個性という面でも重大な変化が起きています。たった30年前には、建築家の立場は疑いもなく素晴らしいものでしたが、いまや建築目的も立場もあいまいになってきました。

私たちがYEDsと呼んでいる円、ユーロ、ドルのコンビネーションが全ての自由市場にコミットしています。私にも他の建築家にとっても同じだと思いますが、市場経済における建築の一つの鍵は、建築を捉えることが難しくなってきている、つまり本来ゆっくりとした媒体である建築が、市場経済のために信じられない早さで変化して行くことです。
たとえば2、3年前、ハリウッドのユニバーサル・エンタテインメント、ユニバーサル・スタジオの本社の設計を依頼されました。私たちがその内容を調べますと、他の様々なグループで構成されていることがわかりました。それだけでなく、5ヵ月後に再調査しましたら、そのグループの半分が売却され、ビルの半分は完成前に他のグループに貸し出され、完全に新しいままで、どこへも売却されなかったのは、全体の3分の1でした。
そこで、安定した建築状況を捉まえることが出来るか、という疑問がどんどん膨らんできます。即ち、クライアント、プログラムそしてビルとの間に本当に良い関係を築けるかということです。私たちがまずやるべきことは、グループ構成が変わり続けていく中で、新しい全体像を作りだすこと、そのいわば思索的なモデルを創ることです。この不安定性が建築家あるいは建築そのもののあり方を信じられないほど難しくしていると思います。もう一つ、建築家の更なる課題は、基本的に変わり続ける需要を定義として提示することです。言い換えれば、私は建築家として何も期待できない、常に誰かに何かを依頼されるまで待たざるを得ないということです。ですから建築家はますます自分自身のアイデンティティを決められないということです。私たちのオフィスでもそれは大変に危険なことと感じています。一般的に大変難しい状況にあると思います。誰でも自分の運命をコントロールしたいと思いますが、市場経済ではほとんどの場合それは出来ないことだと思います。

リサーチ活動
そのようなわけで、デザインに関しては何も教えないという明確な条件をつけて私はハーバード大学の教授になりました。私は、ある意味でデザインは建築のもっとも易しい部分だと思いますが、教えるのは大変に難しいのです。ハーバードでの条件では、私はリサーチが可能であり、毎年、大勢の学生をリサーチにつれていくことが出来る、それによって、委員会から独立した形でさまざまな研究が可能になりました。単に知識を得るだけという勉強も可能でした。その意味で、1995年に中国の調査を始めたことは大変に重要なことです。といいますのは、中国に何か重大なことが起きているのが明らかだったのです。その状況を正確に理解したいと思いました。

1000人当たりの建築家の数を調べますと、ヨーロッパが例外的に恵まれています。アメリカはヨーロッパの3分の2くらい、中国はそのアメリカの10分の1くらいしかいません。設計費はヨーロッパ人が高くて恵まれており、アメリカ人はその半分の収入、中国人はそのアメリカ人の数分の1にしかすぎません。
実際の建築量を見ますと、ヨーロッパはごく僅かであり、アメリカはヨーロッパの何倍にもなり、中国はヨーロッパの100倍くらいの建物を建てています。これは私たちにとって、中国を理解する上で大変に重要なことです。数少ない建築家が、僅かな金額で、中国の都市に起きている巨大な実態を動かしているのです。

5

中国への挑戦
中国を調査し、また、アメリカでの経験も積んだ後、昨年の初めに面白い選択、ジレンマに直面しました。ニューヨークの世界貿易センタービルの跡地再開発と中国のテレビ局の設計、二つのうち、どちらかを選ばなければならないという事態におちいりました。実際には易しい選択でした。といいますのは、私はアメリカ、特にニューヨークでは、斬新な建築は不可能と感じていました。ニューヨークのための新しいイメージは沸いてきませんでした。貿易センタービルの跡地は、メモリアルという条件がすでにあり、そこに未来志向のものを創造することは不可能と感じたのです。また、早晩に商業プロジェクトになるであろうと危惧したのです。逆に中国は新しい指導者のもとで、これまでとは違った方向に向かって進んでおり、本当の新しい大きな挑戦ができると思ったのです。

さて、中国に関しては、少々誤解があるように思います。中国は何のためらいもなく、完璧な資本主義国家になろうとしているという誤解です。実際には、中国は独自のシステムも維持しようとしています。これまでのシステムの長所と新しいシステムとをどのように統合すべきか、模索していると思います。もちろんこれは大変に複雑な問題ですが、この問題に取り組み、良い仕事ができるかどうか、ある意味では実験をしたいと思ったのです。

年毎のGDP成長率を見ますと、世界各都市の中でも北京のGDP成長が最大です。上海より北京の方が大きく成長しています。これは1976年の北京ですが、北京がどんなに大きくなったかが分かります。二つのことが言えます。第一に天文学的に拡張していること、第二に多かれ少なかれ円形状に、全方向に同じように拡張していることです。これは重要なことです。上海のように完全にランダムということではなく、ある程度の秩序があるようです。
また図で申し訳ありませんが、私には信じられないくらい興味があるのです。なぜならば、北アメリカの都市化は1970年に横ばいになり始めています。ヨーロッパの都市化も水平になり始めています。中国の都市化は、まったく水平にはならず、大きく成長し続けています。街はどうあるべきかについて書かれた西洋の主な本は全て、その街の拡張が終わった時点で書かれており、もちろん大変に理論的なものです。大雑把に言いますと、1980年から現在の間は、都市理論が完全に空白になっています。私たちは現在矛盾した立場にいると思います。つまり欧米では街のあるべき形を考えることをやめ、一方で中国は先例のないほどの大量の街を造りだしており、非常に難しい立場に立っています。なぜならば、その進行プロセスは理論的な枠組のないまま進行せざるを得ないのです。

6

建築と保存活動
中国は混沌としていると、人々は決めてかかっていますが、北京はそんなことはないと言っておきます。中国は大変に急速にしかし秩序ある成長をしています。中央部に禁制のシティがあり、その周囲に低層地域があり自動車道が何本もリング状に走っていて、全体として街を取り囲むような素晴らしいインフラとなっています。近代化は自動車道に沿って組織化され、自動車道の間には古い状況が手付かずのまま、多少残っています。街は均一の状態ではなく、古いものを近代が囲む形で、新旧が交互に並んでいます。
よく知られているように、新しい構造空間をつくるために、北京は過去を故意に破壊してきました。中国が古いものに対していかに野蛮で無責任であったかについては、記事が沢山あります。しばらくしてから、私は中国が他のどこよりも無責任であったというコンセンサスには少々疑いをもつようになりました。
重要なことは、中国自身が文化遺産の重要性を良く理解し、あるいは理解しつつあることです。これはニューヨークタイムスの典型的な見出しです。古い北京を一掃してゴミ箱に入れてリニューアルと書いてあります。古典的な批評です。もっと敏感でありたいと、保存に目を向けました。

建築と保存は全く異なった分野のものであり、その間には大きな壁のある、異なる活動なのです。しかし、私たちは重要なもの全て、公認されたもの全ての保存方法を調べ始めました。 調査部門を持つことはオフィスにとって強みになると思います。最初の保存活動は1790年のフランス革命直後に行われたことがわかりました。それは「芸術と記念碑の委員会」とよばれました。それから約180年後、英国人が保存にとりくみました。近代は写真、蒸気機関車の周辺、電話、鉄道などにとり囲まれています。言いかえれば、私たちが発見したのは、保存は別世界のものではなく、近代自体の構成要素ということです。もちろんそれは大変に論理的なものです。つまり、近代化を始める時に何を守り、何を破壊しないでおくかが重要なのです。
保存したいと言う衝動は広がるばかりです。そこで、最終的に一つの要素として、現在と保存を望む物との距離を決めました。最初のケースでは、保存したいものと現代との時間は2000年でした。1900年には、その時間は200年、今では、ある場合にはたったの10年、20年です。基本的に、過去と現在の間隔、あるいは距離はだんだん縮んでいきます。私たちは、保存は過去に遡るものとは見ていません。それは現在その時に決定されるべきものと思います。それは保存のためのインフラであり、全てなくてはならないものと見ています。その点で、保存が計画全体のものとなり、未来に向けての計画と過去を振り返っての保存と間に、明らかな区別を無くすことができると思います。未来に向かっての計画と同時に、未来に向かっての保存が可能になるのです。

その哲学が北京における私たちの仕事の一部となりました。それを信じて、北京の美しい古い過去を保存するだけでなく、共産主義時代に作られた興味深い建築学的作品も保存対象になります。建築は尊重されるほどのものではありませんが、歴史上の重要な意味があるのです。北京には、美しいホテルや低層のコートヤード ハウスだけではなく、ロシアから中国へ入ってきた社会主義者の住居もたくさんあります。それは歴史上の重要な時期の象徴でもあります。保存すべきインフラでもあり、多分、全ての中でもっとも重要なものでしょう。そこは政治的に重要な出来事のあった場所です。

7

中国中央電視台 新本社ビル(CCTV)
このような状況の中で、北京のCCTVプロジェクトを検討しました。アジア、特に中国において、現代建築がうまく機能するか、破壊することなく、一方では意味のない形を取り入れることなく、街の一部として意義のある存在になることができるかを考えました。
CCTVの仕事と並行して、北京のCBD(中央ビジネス地区)のプロジェクトも依頼されました。最初は誰もがするように、他の計画中のビル、高層ビルのシリーズなどを想定して、スタートしました。しかし、それには満足できず、一つの複合形式を考えはじめました。超高層ビルが立ち並んでいるところの現状を見ますと、そこに住民やグループのコアがありますが、互いにあまりにも遠いし、孤立していて、交流はないのです。これを二つの方向に発展させることができます。巨大なスーパーコアを、あるいはスーパービルディングを作って、住民のコミュニティを作ることもできますし、また、コアを分配して低層の地域を作り、そこに都市生活のライフ・ネットワークを作ることできます。   街の新陳代謝という考え方にも刺戟を受けますし、いうまでもなくアジアにも新しい都市が生れていることに注意を向けています。私は、質を落とした超高層ビルよりむしろ、分散させたり、集中させたりする方が街の本来の姿だと思います。

CCTVは、一つのビルにこの二つの状況を創りだす試みなのです。CCTVは中国のテレビジョンですが、かれらは中国のBBCになりたいと思っています。国から独立して、オリンピックの前にプログラムを天文学的に広げたいと考えています。全体に巨大な拡張がキーポイントです。
これが全体プログラムです。基本的に二つのカテゴリーで構成しています。一つは公共の場所で、ホテルやテレビのパフォーマンスを見に来る人たちの場、劇場、展示場、基本プロジェクトなどから成り、もう一つはテレビを制作するための全ての要素、事務所、管理部門、スクリプトを書く所、放送施設、スタジオなどです。みんな活動している、その全体のプロセスが、たった一つのところに集まるのです。普通は独立した存在であるものを統合することに興味をもち、実際にはループ状の建築にしました。現在は、スタジオは費用のかかる街の中心ではなく郊外にあり、クリエイターたちはビジネス街ではなくもっと楽しい場所で、役人は役人的環境の中で働いています。新しいCCTVでは、皆が一緒になることによって、互いの存在を常に確認できるのです。つまり、私たちは中国のシステムにも関わっているということです。こうした統合は中国の価値観のお陰で可能になったといえるでしょう。これがCCTVの形ですが、もちろんどこからも同じように見えるわけではありません。個々にディメンションがあります。高さ240メートルです。ループは概念的、構造的なものだけでなく、技術的な要素もあります。何かのとき、セキュリティには特に、一方のサイドからはそこへ行けませんが、逆のサイドからは行けるようにしてあります。

これが現在のプログラムです。ビジターのサークル部分である地下のスタジオなどから全体をイメージしたものです。基本的に、スタジオを訪れると、ビルの上階まで行って降りてくることが出来ます。エントランスには、非常に広いロビーがあります。二つのビルを併せて55万平米あります。こちらの一つが34万平米です。驚くべきスケールです。ビルの上部まで軌道が続いていて、ビルが如何に集中化されており、スペクタクルであるかがわかります。

建築家にとって、外国で仕事をする場合、他の人を納得させるとことはもちろん必要ですが、自分自身が納得することがもっとも重要で難しいことです。つまり、単なる形式ではなく、あるいは見世物的な価値ではなく、文化や周辺の状況に真に価値がある貢献ができるかどうかが重要なのです。もちろん、日和見的ではなく、ある変革の手助けになるようなイベントに参加することが非常に大切だと考えています。
ありがとうございました。

 

中国中央電視台 新本社ビル(CCTV) (北京、2002-2008) ©OMA CCTV ©OMA
中国中央電視台
新本社ビル(CCTV)
(北京、2002-2008)
©OMA
CCTV ©OMA