Athol Fugard
Athol Fugard

アソル・フガード

Athol Fugard

プロフィール

 俳優、演出家としても活躍し、南アフリカでは国民的な人気を博す劇作家。1932年、英国人の父とアフリカーナー(アフリカ南部のオランダ系移民)の母の間に生まれる。「英語で書くアフリカーナー」と称し、戯曲『血の絆』(1961)『マスター・ハロルド・アンド・ザ・ボーイズ』(1982)をはじめとするアパルトヘイト(人種隔離政策)に抵抗した作品で知られる。フガード作品に通底するのは、人間が持つ弱さや民衆の感情を描き出すことであり、その普遍的なメッセージによって世界各地で上演され、早くから国際的な評価を確立した。初の小説『ツォツィ』(1980)は映画化され、2006年に米アカデミー賞外国語映画賞を受賞。2011年にはそれまでの功績によりトニー賞を受賞。今年4月には米国初演の新作『ハチドリの影』で、15年ぶりに舞台に立った。岡倉天心、松尾芭蕉を愛読し、今回は61年ぶりの来日。アフリカ大陸から初の世界文化賞受賞。

詳しく

 「世界中でシェイクスピアの次に多く上演される」ともいわれる世界有数の劇作家。南アフリカの国民的人気作家であり、俳優、演出家としても活躍する。アパルトヘイト(人種隔離政策)への断固たる姿勢で知られるが、その作品の本質は「名もなき人=民衆」の物語であり、人間のリアルな感情を描き出していることだ。

  同国中部ミデルブルグで英国人の父とアフリカーナー(アフリカ南部のオランダ系移民)の母の間に生まれ、4、5歳で港町ポート・エリザベスに移住。母エリザベスは、素朴で正義感にあふれた女性だった。

  「当時、どんな場所でも見られたアパルトヘイトによる不条理を、母はいつも私に示してくれた。私の意識に母ほど影響を与えてくれた人はいない」と振り返る。一方、父の言葉である英語の表現は、母の言葉であるアフリカーンス語と混じり合い、磨かれていった。

  『血の絆』(1961)は国際的に成功した最初の作品であり、この時期から黒人演劇グループと活動。黒人と白人の共演は禁じられており、これらの活動によってパスポートを没収されたり、黒人居住区への立ち入りを禁じられるなどの迫害を受けたこともある。

  だが、その後も『マスター・ハロルド・アンド・ザ・ボーイズ』(1982)、『メッカへの道』(1984)など話題作を次々に発表。前者では孤独な白人少年が抱える弱さとトラウマを通じて、自らの体験を率直に描き出し、国際的な評価を確立。1980年に初めて手がけた小説『ツォツィ』は映画化され、2006年の米アカデミー賞外国語映画賞を受賞。2011年には、それまでの功績によりトニー賞を受賞した。

  若き日には船乗りとして世界中をめぐり、終戦後間もない新潟にも寄港(1953年)。今回は61年ぶりの来日となるが、岡倉天心や松尾芭蕉を愛読し、「自然の教えを大切にする日本」への造詣も深い。

  アパルトヘイトが撤廃されて20年の歳月が過ぎた今も、依然として続く差別や貧困、汚職など母国の現状に問題提起を続けるかたわら、今年4月には新作『ハチドリの影』で、15年ぶりに主役を演じた。彼自身と実の孫との体験を基に、劇中の老人が孫と過ごす時間と対話を通じて人生を祝福するという内容で、新たな境地を開いている。

  82歳の今も2本の新作構想があるという。「まだ生きるべき人生があり、それは冒険に満ちている」と、創作にかけるエネルギーは衰えを知らない。アフリカ大陸から初の世界文化賞受賞。

略歴


1932 南アフリカ共和国東ケープ州ミデルブルグ生まれ

1950-53 ケープタウン大学で学ぶ

1953 大学中退し船員として2年間働き、創作を開始する

1955 南アフリカ放送局で働く

1960年頃 サークル・プレイヤーズ劇団を始める

1961 戯曲『血の絆』初演

1963 サーペント・プレイヤーズ劇団を立ち上げ、劇作・演出・俳優として活動

1965 『こんにちは、さようなら』初演

1971 『ボーズマンとレナ』(1969年初演)でオビ賞受賞

1972 ケープタウンでスペース実験劇場を立ち上げる
『シズウェは死んだ!?』

1980 小説『ツォツィ』出版

1982 『マスター・ハロルド・アンド・ザ・ボーイズ』

1990 『わが子どもたち!わがアフリカ!』

1996 『谷間の歌』初演

2006 映画『ツォツィ』がアカデミー賞外国語映画賞受賞

2010 『トレイン・ドライバー(列車運転士)』初演

2011 トニー賞特別功労賞受賞

2014 最新作『ハチドリの影』初演。15年ぶりに主役を演じる