第2回
1990年
演劇・映像部門
Federico Fellini
フェデリコ・フェリーニ
イマジネーションの翼をはためかせ、映画という虚構の世界と現実のはざまを奔放に飛び回り、観客を絶えず挑発し幻惑し続ける「映像の魔術師」。その作風は彼自身が語る「私が映画だ」という有名な言葉に端的に示されている。
1920年、イタリアのリミニ生まれ。サーカスが何より好きで、自宅近くのテントに毎日、見物に出かけたという。長じてローマに出た彼が、夢を実現させる場所として足を踏み入れたのは、サーカスのテントではなく、巨大な撮影所だった。夫人の女優、ジュリエッタ・ マシーナが主演した「道」(1954)など、作品にはしばしば、道化師が登場する。サーカスの猥雑さとペーソス、スペクタクル性に加え、詩的な緊張感が漂い、フェリーニ監督自身を思わせる人物が多く登場するのも特徴のひとつ。「81/2」(1962)では名優マストロヤンニ扮する映画監督に自身の体験を投影させ、映画史上の傑作とされている。最期の作品になった「ボイス・オブ・ムーン」(1990)でもその要素が色濃く、幼年期の神秘的な体験がベースとなっている。
代表作に「カリビアの夜」(1957)、「甘い生活」(1959)、「インテルビスタ」(1987)など。1993年死去。
略歴
奔放なイメージで見る者を圧倒する映像の魔術師は「私が映画だ」と言い放った。映画という虚構の世界で過去と未来、夢と現実を交差させながら、自身を語り続けた。
フェデリコ・フェリーニはアドリア海にのぞむ北イタリアの町リミニに生まれ育った。9歳のころ、自宅近くにサーカス小屋があり、毎日通ったという。「映画監督にならなかったらサーカスに入っていただろう」と語ったことがあるが、誇張ではない。
フェリーニ映画に登場する広い海、大きな女、深い霧、魔術師、スパゲッティ、色事師……。そうした猥雑さはサーカスに通じる。子供のころから絵が好きで、1939年に19歳でローマに出て、似顔絵描きやラジオの台本を書いて生計を得た。マルセル・カルネがジャック・フェデー監督と出会って助監督になったように、フェリーニも第二次大戦の終結直前、当時の巨匠ロベルト・ロッセリーニ監督の知遇を得て、『無防備都市』、『戦火のかなた』の脚本、助監督を務め、ネオリアリズム運動に参加した。
『寄席の脚光』(1950)で監督デビュー。『白い酋長』(1952)に続いて、監督自身の夢と追憶を描いた『青春群像』(1953)でヴェネツィア映画祭の銀獅子賞。そして、夫人のジュリエッタ・マシーナが主演、大道芸人の浮草暮らしを描いた『道』(1954)は世界中を感動させ、アカデミー外国語映画賞を受賞した。ニーノ・ロータの切ない音楽。そのラスト、マシーナのジェルソミーナが死んで初めて彼女の純粋無垢に気づいたアンソニー・クインのザンパノが海浜で咆哮するシーンの鮮烈さが忘れられない。
『カビリアの夜』(1957)に続くアニタ・エクバーグの印象が強烈な『甘い生活』(1959)は、ローマの上流社会の享楽的な世界を描き、あまりにスキャンダラスな内容から国内で論議を呼んだ。しかし、カンヌ映画祭でグランプリを獲得した。『8H』(1962)は共同作品をHに数えて彼の8とH番目の作品に当たることからタイトル名になった。親友の俳優マルチェロ・マストロヤンニが演じる主人公の監督にフェリーニ自身を投影させ、映画監督の創作の苦悩を描いて映画史に残る傑作となった。
このあたりからネオリアリズムの伝統から離れ、自身の豊饒なイメージや奔放な創造力を開化、それを謳歌する意表をつく作品を次々と発表する。『フェリーニのアマルコルド』(1973)は、監督が少年時代を過ごしたリミニの町をチッタという少年の目を通して描いていく。父はファシズムに反対して囚われ、優しかった母は死んでしまう。だがチッタはけなげに生きていく。イルミネーション輝く豪華客船を見送る幻想的なシーンなどがめくるめくように展開する。幻想的なイメージと温かい人間模様が溶け合って、郷愁を覚えさせる。無意識や少年時代の記憶が芸術家としてのイメージや創造の源となったに違いない。
『インテルビスタ』(1987)から最後の作品となった『ボイス・オブ・ムーン』(1990)までフェリーニ芸術の豊饒さは、ゆるぎなく観客をとらえ続けた。『ボイス・オブ・ムーン』に印象的なセリフがある。「私は生きることより思い出すことが好きなのです」。だから、独立した個々のフェリーニ作品がひとつの糸でつながってみえ、また、生涯をかけて一本の映画を撮り続けたようにもみえる。
かつてフェリーニはこう語っている。
「私の経験がすべての作品に強く投影されているからだ。ほかの人がみれば、私の作品はモザイク模様の積み重ねのように思うかもしれない。映画を製作するときは、その時々、自分のなかにあるものを表現しているだけなのだ」
かつて、誰にでも至福の子供時代があった。美しさ、豊かさ、幸福……。芸術家はそこへ帰っていかなければならない。自分のなかへ。だからこそ、我々も自由に、フェリーニ映画のなかへ入っていける。永遠に。
フェリーニは1993年10月31日死去。73歳だった。
小田孝治
略歴 年表
主な作品
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道(1954)
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甘い生活(1960)
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ローマ市内のカフェにて