第1回
1989年
絵画部門
Willem de Kooning
ウィレム・デ・クーニング
激しい筆触とオレンジや黄色など強烈な色彩とで描かれた50年代の「女」シリーズで一躍脚光を浴びる。アメリカの抽象表現主義を代表する一人であり、「抽象絵画に新たな肉体性を与えた」と評される。
1904年、オランダのロッテルダムに生まれ、22歳でアメリカに渡ってニューヨークに定住、商業美術で生活を立てながらも、36年ころには画家として自立する。「マリリン・モンロー」(1954)など「女」シリーズでは、美しかるべき女体が抽象絵画と見まがうほどにデフォルメされてキャンバスに塗りこまれた。その一方で抽象的風景画という独特の分野を開拓する。まず場所や状況の“感覚をつかみ”、その感覚を“一息で”画面にぶつけていく。
63年以降、ニューヨーク郊外のイースト・ハンプトンに移り住む。「私は水の反映を見ながら思索する。田舎に住みたいのは、光が私に語りかけてくるから」と言う。晩年になるに連れて筆はより自在になり、漂うような色面で構成されるようになってくる。ヘンリー・ムーアーのすすめで彫刻も制作、人物が溶解するようなフォルムを作っている。その一つ、「足を組む人物」が箱根・彫刻の森美術館に収蔵されている。1997年死去。
略歴
ウィレム・デ・クーニングの描いた「女」たちは、抽象表現主義のミューズといっていいだろう。激しい筆触が女体を抹殺せんばかりだが、それでも大きな目を剥き、歯を剥き出して笑う女たち。動物の爪のような手が、いかにも凶暴そうだ。すさまじいまでにデフォルメされて、意地悪そうな魔性の女とも、粗野で陽気でおかしな女とも見える。どこか堂々としていて、豊饒を司る邪教の女神のようでもある。画家自身は制作意図について、「美しい女が好きだ。実物はもちろん、雑誌に登場するモデルたちも。それでも、女たちに苛立つことがある。『女』シリーズでは、その苛立ちを画面に塗り込めた」 と語っている。激烈な表現のために一見、凶暴そうな女たちが、どことなく滑稽なのも、そのためだろう。デ・クーニングが、「俗悪のメロドラマ」風に仕立てあげた女たちを「はしゃいで今風で陳腐な偶像」と呼んだのは美術評論家のトーマス・ヘスである。
『女』シリーズでは、美しかるべき女体が筆触すさまじい色面に埋没してしまって、一見、抽象絵画と見紛うばかりだ。『マリリン・モンロー』(1954)でも、かの高名なセックス・シンボルを実物以上にシンボル化してみせた。ところが、抽象表現主義とキュビスムの手術を施されながらも、画面は、あるかなきかの“女”たちの姿を通して、官能にむせかえるようである。デ・クーニングは「抽象絵画に新たな肉体性を与えた」と評したのは、美術評論家サム・ハンターだった。
デ・クーニングは1904年、オランダの港町ロッテルダムに生まれた。商業美術を扱う会社で働くかたわら、美術工芸アカデミーの夜間クラスに通った。そのころ習得した技術がアメリカに渡ってからの生計の助けにも、また本格的な画家としての活動の基礎にもなった。1926年にアメリカに渡り、翌年からニューヨークに定住した。1936年ごろ画家として自立し、1950年までにはニューヨーク派の抽象表現主義の主要なメンバーとみなされるようになった。抽象表現主義は第二次大戦後、アメリカが初めて世界に向けて発信、ニューヨークが国際的な美術の中心となるきっかけとなった美術運動であり、激しい筆触と強烈な色彩とで、1950年代から60年代に世界の美術界を席巻した。
抽象表現主義のほかの僚友たち──マーク・ロスコ、ジャクソン・ポロック、バーネット・ニューマンらの画面にも、1940年代までは人型めいたものが現れ、それらは古代神話や原始時代のイメージをかき立てるのに対して、デ・クーニングのモティーフは、もっぱら現代生活のシーンに結び付いている。この姿勢に触発されたのがロバート・ラウシェンバーグやジャスパー・ジョーンズで、彼らは、より卑近な事物を対象とするようになり、これが60年代、ポップ・アートとして花開くことになる。デ・クーニングがポップ・アートの先駆者とされるゆえんである。しかし消費時代のコマーシャリズムを謳歌する彼らにくらべて、デ・クーニングの芸術は、はるかに内省的なものといっていい。50年代に入ると、ロスコ、ポロック、ニューマンらは、純粋抽象へと向かっていく。だが、デ・クーニングの主題は依然として女性と風景だった。
デ・クーニングは、欲望と嫌悪にかき立てられたイメージを、激しい筆触と強烈な色彩とで、狂おしいまでにキャンバスにたたきつけた。しかし、その画面を冷静に観察すれば、平面における色彩とフォルムの関係、空間の暗示との両面にわたって、ヨーロッパの伝統と古典的な絵画構造にのっとっていることがみてとれる。
1963年、ニューヨーク郊外のイースト・ハンプトンにアトリエと住まいを構えるようになると、マンハッタンに足を運ぶことも少なくなり、画面には新たな活力と光が加わってくる。女たちはいよいよ豊満となって、ピンク色の肌は滑らかに、赤い唇は輝きを増してくる。また、イースト・ハンプトンの自然に触発されて、その心象を描く抽象的風景画という独自の分野を開拓していった。
まず、場所や状況の「感覚をつかみ」、その感覚を「一息で」画面にぶつけていく。「私は水の反映を見ながら思索する。田舎に住みたいのは、自然の風景を絵のモティーフにしたいというよりも、光の感じが私に訴えてくるからだ」。
1968年、初の大回顧展がアムステルダム、ロンドン、ニューヨークを巡回、アムステルダムでのオープニングに合わせて、渡米以来42年ぶりに母国オランダを訪れた。1969年から1970年代半ばにかけて、ヘンリー・ムーアの勧めもあって彫刻を制作、人物が溶解するようなフォルムをつくっている。
デ・クーニングの抽象的風景は1960年代から70年代を通じて、激しい筆触から浮遊するような色面へと移行して、晩年になるにつれて筆致は自在さを増していった。1980年代半ばまでは制作を進めて、初期の1938年から86年におよぶ大回顧展が、1994年春から翌春まで、ワシントンのナショナル・ギャラリー、ニューヨークのメトロポリタン美術館、ロンドンのテート・ギャラリーを巡回した。
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松村寿雄
1997年3月17日逝去
略歴 年表
ゴーキーの死
主な作品
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©Willem De Kooning Revocable Trust
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