エンリコ・カステラーニ

Enrico Castellani

プロフィール

  カンヴァス表裏に釘を打ち込んだ三次元の作品は、「光の絵画」と呼ばれる。陰影で表情を変える作品は、見る者の知覚と心理状態を反映する鏡ともなる。「私の作品は、何かを訴える必要はない」と、主観性を排した規則的な凹凸の表現スタイルを、半世紀にわたり守り続ける。イタリア北東部のカステルマッサに生まれ、ベルギーで彫刻と絵画、建築を学ぶ。帰国後は、ピエロ・マンゾーニらと前衛美術誌を創刊し、画廊を創設。1959年の《レリーフ状の黒い表面》で現在に繋がる立体的表現にたどり着き、絵画の新境地を拓いた。以後、ヴェネツィア・ビエンナーレ(1966)など、世界各国の展覧会で国際的評価を確立。2001年にミラノのプラダ財団、2005年にはモスクワ・プーシキン美術館でも個展を開いている。今回が初めての来日。

詳しく

  カンヴァス表裏に釘を打ち込むことで形作らる三次元の作品は、「光の絵画」と呼ばれる。一定の規則性を持って並ぶ凹凸は無機質にも見えるが、光を当てた瞬間、陰影がさまざまな表情を見せながら無限に広がり、見る者の知覚と心理状態を反映する鏡となる。
「私の作品は、作品としてのみ存在するのであって、何かを訴える必要はない。何も表現しないことを目的に作られている」   白や黒の単色作品が多くを占めるのも、記憶や感情に縛られない色を選んだ結果。「表面に人格を反映させない」と、主観性を排した創作スタイルを、半世紀にわたり守り続けてきた
イタリア北東部のカステルマッサに生まれ、ベルギー・ブリュッセルの王立美術アカデミーで彫刻と絵画、ラ・カンブル国立美術学校で建築を学ぶ。1956年に帰国し、戦後イタリア美術を先導した空間主義の画家、ルチオ・フォンタナの薫陶を受け、ピエロ・マンゾーニらと共にミラノで前衛美術誌『アジムート(方位)』を創刊、同名の画廊を創設した。それは、第二次大戦後、前衛芸術運動の主流だったアンフォルメル(非定形主義)から出発したものの、それらを拒絶し、自ら発表の場を求めての行動だった。   1959年には《レリーフ状の黒い表面》で、カンヴァスに渡した木枠に釘を打つという、現在まで続く表現スタイルを確立。従来の二次元絵画では表現し得なかった凹凸やカンヴァスの緊張感が生む陰影の繰り返しで、絵画の新境地を拓いた。「建築も学んだから、このような構造を持つ表面を設計するのはたやすいこと。二重曲線を持つ屋根を作るようなもの」と語る。
以後、ニューヨーク近代美術館の『応答する眼』展(1965)や、ヴェネツィア・ビエンナーレ(1966)など、世界各国の展覧会に参加。1970年代には一時、政治的理由で創作を中断したが、以後、国際的評価を得て創作を続け、2001年にミラノのプラダ財団、2005年にモスクワ・プーシキン美術館、昨年にはニューヨークのギャラリーで個展を開いた。
現在はローマから約100キロ離れたチェレーノの丘に建つ中世の古城に住み、80歳の今も、朝8時半から夕方5時まで、休むことなく創作活動を続けている。彼の活躍は、人口わずか1300人の町の誇りでもあり、住民は尊敬を込め「マエストロ」と呼んでいる。

略歴

  1930   イタリア・カステルマッサ(ロビーゴ)生まれ
  1952   ベルギー・ブリュッセルに移住し、王立美術アカデミーで絵画と彫刻を学ぶ
  1956   ベルギーのラ・カンブル国立美術学校の建築科を卒業、ミラノに移る
  1959  

ピエロ・マンゾーニらと共に前衛美術誌『アジムート』を発行

同名の画廊をたちあげ『グループ・ゼロ』展を開催(-1960)

≪レリーフ状の黒い表面≫発表

  1961   アムステルダムのステデリク美術館での『ゼロ』展に参加
  1964,66   ヴェネツィア・ビエンナーレに参加
  1965  

サンパウロ・ビエンナーレに参加

ニューヨーク近代美術館『応答する眼』展に出品

  1968   カッセル・ドクメンタ4に出品
  1973   イタリア中部のチェレーノに活動の拠点を移す
  1981   ポンピドゥー・センター『イタリアのアイデンティティー』展に出品
  1988   児玉画廊(大阪)にて個展
  1991   鎌倉画廊(東京)にて個展
  1994   グッゲンハイム美術館『イタリアン・メタモルフォシス(イタリアの変容)』展など多くのグループ展に出品
  2001   プラダ財団(ミラノ)で大回顧展
  2005   プーシキン美術館(モスクワ)で大回顧展
  2009   ニューヨークの画廊で個展
  2017   12月1日、イタリア・チェレーノの自宅にて逝去