トップ 受賞者一覧 ピナ・バウシュ

第11回

1999年

演劇・映像部門

Pina Bausch

ピナ・バウシュ

 ピナ・バウシュは、ダンス、演劇など芸術の垣根をとりはらった総合舞台芸術「タンツ・テアター」を創設し、強烈なインパクトを与えている振付・演出家である。
  1940年、ドイツのゾーリンゲンに生まれ、エッセンのフォルクヴァンク芸術学校でドイツ表現主義の巨匠、クルト・ヨースに学んだ。卒業後、米国ジュリアード音楽院舞踊科へ留学、メトロポリタン・オペラやニュー・アメリカン・バレエでソリストとして活躍した。62年に帰国、師ヨースが創立したフォルクヴァンク・バレエで、ダンサー件振付師として活躍した後、73年、ヴッパタール舞踊団を発足させた。77年、フランスのナンシー演劇祭で上演した「七つの大罪」で国際的に注目され、以後、自伝的作品「カフェ・ミュラー」(1978)、「カーネーション」(1982)、「船と共に」(1993)、「ダンソン」(1995)、「炎のマズルカ」(1998)など、話題作を発表し続けている。
現代社会に生きる人間の脆さや愛の苦悩など普遍的なテーマをとりあげ、時には過激な身体表現が激しい論争を巻き起こしてきた。舞台に土、水、花など自然物が大量に使われるのも特徴。各国のダンサーで構成されているヴッパタール舞踊団は世界各地で公演しており、初来日は85年。99年に5回目の来日公演を行った。

略歴

  「私の作品を見てくれる人がいる限り、私は作品をつくり続けます。」と、60歳を過ぎても充分にエネルギーを持続させているピナ・バウシュは、 現代の舞台芸術の先端としてのダンス作品を毎年のように発表、 その一作一作に世界中が注目している。
  バウシュは、 いつも稽古場にいる。 そして新作が上演されるときは勿論のこと、 再演の場合でも客席で目をこらして見ている。 まるで自分の胎児が目の前の舞台に産み落とされ、そしてそれがどのような動きをするか見届けるかのように。 彼女は、 自分の創造した美的世界を、 誠実に、 全身全霊を使い果たして、 われわれに呈示し、見せてくれる。 その作品に出会った人は、 目の前のアングルや空間・フォルムに驚愕させられるだけでなく、 自分が気がつかなかった自分を探求することとなり、 こころが自由に解き放たれる。
  ピナ・バウシュ & ヴッパタール舞踊団は、ドイツを初め世界各国からの30人のダンサー(日本人2名も)で、 2001年も90回を越える公演を本拠地ヴッパタール、パリ、 ニューヨークなどで行っている。 日本は1986年から5回来日、 2002年5、6月に6回目の日本公演がある。
  バウシュはドイツのゾーリンゲンに生まれ、14歳からエッセンのフォルクヴァンク芸術大学でドイツ表現主義舞踊の巨匠、クルト・ヨースに師事。18歳でニューヨークに渡り、2年間アメリカの現代舞踊の隆盛期を過ごした。1962年に帰国、フォルクヴァンク舞踊団で活躍、のちフォルクヴァンク芸術大学の教授となる(83-93)。 69年「時の風の中で」がケルンの国際振付コンクールで1位。
  1973年に彼女はヴッパタール市立劇場のバレエ団芸術監督・振付家に就任、名称を「タンツテアター・ヴッパタール」と改めた。20世紀初頭に始まったノイエ・タンツの様式を発展させ、オリジナルな舞踊芸術 「タンツテアター」を確立した。ダンス・オペラ「タウリスのイフィゲネイア」(1974)、「春の祭典」(1975)、「七つの大罪」(1976)、自らも踊る初期の代表作「カフェ・ミュラー」(1978)、「コンタクトホーフ」(1978)、 最高傑作の一つ「貞女伝説」(1979)などを次々と発表し、初の海外公演として77年フランスのナンシー演劇祭で「七つの大罪」を上演して国際舞台に登場。1983年にはフェデリコ・フェリーニの映画「そして船は行く」に出演する。
  ピナ・バウシュはいままでに44作品を発表しているが、 舞台空間にはシンボリックなもの、 装飾的なものは一切なく、 機能本位のスペースである。 そしてそこに自然界の一部が持ち込まれ、 ピナ・バウシュのミクロコスモスが生まれる。
  現代社会の虚飾に満ちた世界、 逃れ難い人間関係、人間の脆さや愛の苦悩といった誰もが人生で一度ならず直面する普遍的なテーマを取り上げ、日常生活や社会集団内に隠された行動や不透明な世界を巧みにえぐり出し、「危機的な未来」へ警告を与えているピナ・バウシュ。彼女の作品は社会的な主張をもち、 過激で挑戦的であったが、90年代後半からは“やさしさといつくしみ”に満ちた表現も加わってきている。
  ピナ・バウシュは、 ローマに長期滞在して制作した「ヴィクトール」(1986)から、世界の都市や劇場などと協力提携して作品づくりを始めた。 共同制作を行った国は2001年ですでに8カ国、 10作品にのぼる。 そこに住む人々との接触や探索によって共感を得、 自分自身と距離をおいていたものを近づけ、 自国の文化の壁や、 西欧の様式や文化の伝統を越えて、他の文化、 世界観、 人生観、 神話・伝説との遭遇を大きな収穫としてつかみ取り、 舞踊制作の動的要素にして「ピナ・バウシュの世界」を明確に表現して来た。 一都市や一民族の文化に由来するようなものではない、 集団社会を構成する人々の底に流れている“共通に結ばれているもの"の核心を求めて、 彼女は現代舞踊の動きとフォームを広げている。


佐々木 修
2009年6月30日、ドイツ、ブッパタールにて逝去

略歴 年表

1940
7月27日、ドイツ、ゾーリンゲンに生まれる
1955
フォルクヴァング芸術大学でドイツ表現主義の巨匠クルト・ヨースに師事
1958
渡米、ニューヨークのジュリアード音楽院舞踊科に留学
心理劇的バレエを創案したアントニー・チューダーらに師事
1962
ドイツに戻り、ヨース創設のフォルクヴァング舞踊団で活躍、振付も始める
1969
ケルン振付コンクールで作品 「時の風のなかで」 が最優秀賞を獲得し、フォルクヴァング舞踊団の芸術監督に就任
1973
ヴッパタール市立劇場の芸術監督兼振付家に就任
1974
カンパニー名を“タンツテアター・ヴッパタール”と改名、演劇でもオペラでもない全く新しい創作活動を開始
1977
フランスのナンシー演劇祭で上演した「七つの大罪」が絶賛され、欧米各地で公演、高い評価を得る
1978-
英エジンバラ・フェスティバル (78、96) を初め、パリ (79)、仏アヴィニヨン・フェスティバル (81)、ロサンゼルス・オリンピック記念芸術祭 (84)、ニューヨーク、ブルックリン・アカデミー・オブ・ミュージック (85)などの出演で大成功を収め、舞踊芸術界で不動の地位を確立する
1986
東京、大阪、京都で初来日公演
日本舞踊家批評家協会賞を受賞
1989、93
来日公演
1998
7月、南仏エクサン・プロヴァンス・フェスティバルでピエール・ブーレーズ (1989年世界文化賞受賞) が指揮するオペラ 「青ひげ公の城」 の振付・演出をする
10月、“タンツテアター・ヴッパタール”創立25周年フェスティバルが地元で行われ、その後ワルシャワ、'99年ロンドン、パリ、日本で記念公演開催
1999
高松宮殿下記念世界文化賞、演劇・映像部門受賞
2009
6月30日、ドイツ、ブッパタールにて逝去

主な作品

1968
「フラグメント (断章)」 (初の振付作)
1974
「タウリスのイフィゲネイア」
1975
「春の祭典」
1976
「七つの大罪」
1977
「青ひげ」
1978
「カフェ・ミュラー」
1982
「カーネーション」
1984
「山の上で叫び声が聞こえた」
1989
「パレルモ、パレルモ」(世界都市シリーズ、イタリア・パレルモ市委嘱)
1990
映画 「嘆きの皇太后」 (脚本、振付、監督作品)
1991
「タンツ・アーベントⅡ-マドリッド」(世界都市シリーズ、マドリッド・芸術芸術フェスティバル委嘱)
1997
「炎のマズルカ」(世界都市シリーズ、EXPO'98リスボン記念作品)
  • フェンスタープッツァー(1977)

  • コンタクトホーフ(1978)

  • アリア(1979)

  • カーネーション(1982)

  • タウリスのイフィゲネイア

フェンスタープッツァー(1977)
©Tanztheater Wuppertal, photo : Francesco Carbone

コンタクトホーフ(1978)
©Tanztheater Wuppertal ,photo : Atsushi Iijima

アリア(1979)
©Tanztheater Wuppertal, photo : Atsushi Iijima

カーネーション(1982)
©Tanztheater Wuppertal, photo : Atsushi Iijima

タウリスのイフィゲネイア(彩の国さいたま芸術劇場、1999)
©The Sankei Shimbun