ロバート・ラウシェンバーグ

Robert Rauschenberg

プロフィール

  抽象絵画と靴やぼろ布、タイヤなど街から拾い集めたものを組み合わせた“コンバイン(結合)ペインティング”と呼ばれる作品群で注目を集める。その創作エネルギーの幅の広さで際立ったアーティスト。ポップ・アートの先駆者として、1960年代以降の美術に多大な影響を与えた。
  1925年、テキサス州ポート・アーサーに生まれる。アメリカ現代美術の精鋭を排出したブラック・マウンテン・カレッジに学ぶ。代表作のひとつ「ベッド」(1955)は貧乏だったためキャンヴァスがなく、シーツやベッドカバーを使って描いたもの。マース・カニングハムやジョン・ケージらとパフォーマンスも繰り広げる。またシルク・スクリーンでジョン・F・ケネディや宇宙飛行士をプリントした作品は有名。
  1964年、ヴェネツィア・ビエンナーレで最優秀賞を受賞して画家としての地位を確立する。この年、日本でも金屏風にコーラのビンやダンボールを貼り付けるなどの公開制作を行い、「ゴールド・スタンダード」を完成させた。近年はコンピュータなども駆使し、常に新しいアイディアに満ちた話題作を発表し続け、世界の現代美術をリードしている。

詳しく

  マンハッタンの舗道に、ロバート・ラウシェンバーグは、画用紙20枚を張り合わせた全長7メートルの細長い紙を敷いた。友人の作曲家ジョン・ケージの運転するA型フォード車が、その上をゆっくり走る。ラウシェンバーグは後輪にインクを塗りながら追いかける。『自動車のタイヤによるプリント』(1953)は、こうしたパフォーマンス的行為によって生み出された。同じ年、もっと奇抜な試みもおこなった。著名な画家から作品をもらい、その絵を消してしまうというのだ。ウィレム・デ・クーニングがそれに応じ、ドローイングを提供した。それを消しゴムで消して発表したのが『消されたデ・クーニングのドローイング』である。芸術の固有性、そして金銭的価値に挑んだものだった。

次から次へと湧くアイディア。ラウシェンバーグは、その創作のエネルギーと幅の広さで際だったアーティストである。ポップ・アートの先駆者として1960年代以降の美術に多大な影響を与えた。
  1925年テキサス州ポート・アーサーに生まれた。ミズーリ州のカンザスシティー美術研究所、パリのアカデミー・ジュリアンを経て、ノースカロライナ州のブラック・マウンテン・カレッジで抽象画家、ジョセフ・アルバースに学んだ。また故ジョン・ケージや舞踊家マース・カニングハムと親交を深めた。そして一躍注目を集めたのは、オブジェと抽象表現主義風の絵を合体させたコンバイン・ペインティングを発表してからだった。そのはじまりは『コレクション』(1953-54)で、赤や黄で塗られたボードの上に新聞、布、ゴッホの絵の複製などが貼られた作品だ。
  彼はその作品をコラージュではなくコンバインと呼び、靴やぼろ布、ときにはタイヤや道路標識まで、街に捨てられていたものを拾い集めては、絵画と同一画面上に取り込んだのである。代表作品のひとつ『ベッド』(1955)は、貧乏だったためにカンヴァスはなく、シーツやベッドカバーを使って描いた。『モノグラム』(1955-59)は、タイヤをベルトとして身につけた剥製のアンゴラ山羊が、絵画の上に立っているものである。また『ファースト・ランディング・ジャンプ』(1961)は自動車のナンバープレートやタイヤを大胆に取り入れた作品で、ニューヨーク近代美術館の重要なコレクションとして人気が高い。
  コンバイン・ペインティングで評価をかためた彼は、1958年、ニューヨークの有力画廊であるレオ・カステリ画廊で個展を開いて脚光を浴びた。さらに1962年にはシルクスクリーンにも挑戦し、作品の量産化を試みた。ジョン・F・ケネディや宇宙飛行士をプリントした作品などが有名である。
  ラウシェンバーグは、1964年のヴェネツィア・ビエンナーレで最優秀賞を受賞したことにより世界的な画家としての地位を確立した。この年、日本にも来て、旧草月会館で4時間半かけて金屏風にコーラの瓶やダンボール箱を貼り付けた公開制作をおこない、『ゴールド・スタンダード』を完成させた。
  また1950年代から60年代はマース・カニングハム舞踏団の衣装デザインを手がけ、即興的なパフォーマンスをおこなうなど幅広く活躍する。他分野の芸術やテクノロジーとの交流に関心が深く、機械化された作品、見る人の存在に作品が反応するようなアサンブラージュもある。芸術がふつう目指す「自己の追求」にそむいて、人々と触れあい、混じりあって、共同制作をおこなう。
  近年はコンピューターを使った一見印刷物のような手の跡を残さない作品を主に制作している。自ら撮った写真をコンピューターに取り込み、ポスター状の印刷物を刷り出し、その表面に水をつけ、裏からこすって別の紙に写し取る。こうして縦横2メートルを超える大作が次々とつくられる。
  ラウシェンバーグはまた、政治、社会に積極的な関心を寄せ、芸術家を支援し、人々の意識を高めることを目的とした「チェンジ」、「ラウシェンバーグ財団」、「ラウシェンバーグ海外文化交流(ROCI、通称ロッキー)」などの団体を設立した。とくにROCIは、世界の芸術家たちと出会い、共同で制作して展覧会をおこなうことにより、交流を深め、世界平和のために役立てようというもので、1985年のメキシコからはじまり、8年がかりで日本、ロシア、マレーシア、中国、キューバなど12カ国を巡回し、大成功を収めた。
  ニューヨークにもスタジオをもつが、現在はもっぱらフロリダの小島、キャプティヴァ島で暮らし、制作している。自宅前には真っ青な海が広がる。20代で頭角を現して以来、常に話題作を発表し続けてきたラウシェンバーグは、今も最前線で世界の現代美術をリードしているのである。

渋沢和彦

 

2008年5月、フロリダにて逝去

略歴

  1925  10月22日、テキサス州ポート・アーサーに生まれる
  1947-48 海軍除隊後、カンザス・シティ美術学院、また一時パリのアカデミー・ジュリアンで学ぶ
  1948-49 ブラック・マウンテン・カレッジでジョセフ・アルバーに学ぶ
  1949 ニューヨークに移り、アート・ステューデンツ・リーグに加盟(-52)
  1950 「ホワイト・ペインティング」を制作
  1951 「ブラック・ペインティング」を制作
ニューヨーク、ベティ・パーソンズ画廊で初個展を開く
レオ・カステリ、ジョン・ケージに出会う
またアート・ステューデンツ・リーグでサイ・トゥオンブリーに出会う 
  1952 ひきつづきブラック・マウンテン・カレッジに学び、ジョン・ケージの初のハプニングに参加
  1952-53 サイ・トゥオンブリーとイタリア、北アフリカを旅行する
  1953 マース・カニングハム舞踊団の衣装をデザイン、翌54年舞台装置を手掛ける
「消されたデ・クーニング」を制作
  1954 後にコンバイン・ペインティングと呼ばれるスタイルを始める
ジャスパー・ジョーンズと出会う
  1958 ダンテの「地獄編」に基づくドローイングのシリーズに着手する(-60)
ニューヨーク、レオ・カステリ画廊での初個展
  1961 マース・カニングハム舞踊団の照明ディレクター、舞台監督に就任する
  1962 シルク・スクリーン・ペインティングを制作を始める
  1963 ニューヨークのユダヤ美術館で回顧展
  1964  ヴェネツィア・ビエンナーレで大賞を受ける
マース・カニングハム舞踊団と来日、草月会館で「ゴールド・スタンダード」を公開制作
  1966  芸術と技術の連帯を目的とするEAT(芸術とテクノロジーにおける実験)を設立する
  1970 フロリダ州キャプティバ島に移住
芸術家への経済的援助を目的とする「チェンジ基金」を設立
  1976 存命する芸術家として、初めて「タイム誌」の表紙を飾る
大回顧展が全米を巡回する(-78)
  1984 国連で 「ラウシェンバーグ海外文化交流」 (ROCI)プロジェクトの発足を発表する
  1985 ロッキー(ROCI)展のための世界巡業ツアーを始める(-90)
  1986 世田谷美術館で 「ROCI日本」 展開催
  1991 「ROCI」の集大成として 「ROCI、USA」 展をワシントンのナショナル・ギャラリーで開催
  1993 アメリカ合衆国大統領からNational Medal of Arts Award を受ける
  1993-94 第2回ヒロシマ賞を受賞し、広島市現代美術館でロバート・ラウシェンバーグ展を開催
  1998 ニューヨークのグッゲンハイム・ソホー美術館とグッゲンハイム・エース・ギャラリーで回顧展
高松宮殿下記念世界文化賞・絵画部門受賞
  2008 5月12日、フロリダにて逝去
  主な作品 1953   「消されたデ・クーニング」
1955   「判じ絵」 (個人蔵)
1955   「ベッド」 (個人蔵)
1958   「コカ・コーラ・プラン」
1955-59 「モノグラム」 (Moderna Museet, Stockholm)
1960   「ティーニとマルセル・デュシャン夫妻のためのトロフィー」
              (ウォーカー・アート・センター)
1960    「巡礼者」
1959-60 ダンテの「地獄編」のためのドローイング34篇
              (ニューヨーク近代美術館)
1961   「貯蔵所」
              (ワシントン、ナショナル・ミュージアム・オブ・アメリカ)
1962   「都市」 (大原美術館)
1964   「間に合わせもの」 (東京、原美術館)
              「くじら」 (広島美術館ほか)
              「アクスル」 (作者蔵)
1968   「音響」 (ケルン、ルードビィヒ美術館)
1968   「至点」 (国立国際美術館)
1969   「スカイ・ガーデン」 (福島、いわき市立美術館)
1981   「5時29分ベイ・ショア発」 (横浜美術館)
1982   「ゲート(北)」
              「ダート・シュライン:北」他多数 (滋賀県立近代美術館)
1984   「回廊-ROCI日本」 (世田谷美術館)
1985   「平和の祭壇/ROCIメキシコ」
              (ワシントン、ナショナル・ギャラリー・オブ・アート)
1985   「SLING-SHOTSLIT#5」 (富山県立近代美術館)
1986   「アラウカン人の墳墓/ROCIチリ」
              (ワシントン、ナショナル・ギャラリー・オブ・アート
1988   「ソヴィエト/アメリカの配備」 ( 〃 )
1990   「水泳/ROCIアメリカ」 ( 〃 )
1992   「飽食のナイル王」 (個人蔵)