アルフレッド・シュニトケ

Alfred Schnittke

プロフィール

  古今の様々な音楽を自分の作品にとりこみ、玉手箱のように合成してしまう作風は「多様式主義」と呼ばれる。その現代性が国際的に認められたロシア出身の作曲家である。
1934年旧ソ連、ヴォルガ川流域のドイツ人民族区のエンゲルスで生まれる。父親がジャーナリストだったため、少年時代の2年間をウィーンで過ごしたことが、後の音楽的志向を形成する。モスクワ音楽院卒業後は72年まで母校で教鞭をとる。その後、モスクワで作曲活動を続けるが、認められていた自由はほんの僅かであったという。この間、生計のため60本以上の映画音楽を作曲、77年にはベルリン映画祭で受賞もしている。一方、その作品はヨーロッパでは70年代から注目をあび、積極的に紹介されてきた。
近年は作品が世界各地で演奏される機会が増え、88年にはアムステルダムのロイヤル・ コンセントヘボウ管弦楽団に委嘱された「コンチェルト・グロッソ第4番=交響曲第5番」が初演され話題となったほか、92年には初のオペラ、「狂気との生活」がオランダで初演され、熱狂的に迎えられた。89年、ドイツへ移住し、ハンブルク音楽大学で作曲を教えていた。1998年、死去。

詳しく

  アルフレッド・シュニトケはなにかにつけて「純粋」という言葉を口にした。「人生の大部分をロシアで過ごしたから、私はロシア人だと思っている。しかし、血においては純粋ではない」などと。一方、彼の音楽にはバッハ、モーツァルトなどさまざまな様式がたくさん混じっている。アンビヴァレントな時代と人生を純粋に作品に反映させた作曲家はもういない。すべてを過去形で語らなければならないのは悲しい。

シュニトケは1934年、旧ソ連のヴォルガ・ドイツ人自治共和国の首都エンゲリスで生まれた。父親はユダヤ系ロシア人の新聞記者、母親はドイツ系ロシア人のドイツ語教師で、「ロシアとドイツのふたつの祖国」をもつ。父の仕事の関係で12歳から14歳までウィーンで過ごし、ピアノを習い、シェーンベルクやベルクら新ウィーン楽派の音楽に触れている。モスクワに戻り、モスクワ音楽院に進んだ。ここでシュニトケはショスタコーヴィチの薫陶を受けたが、1962年にイタリアの前衛作曲家ルイージ・ノーノがモスクワを訪れてからは、ヨーロッパのモダニズムに傾倒するようになった。1958年、作曲科を卒業し、1972年まで母校で教鞭を執る。
シュニトケの音楽は「多様式主義」と呼ばれるが、たとえば『交響曲第1番』(1974)ではグリーグやチャイコフスキーの音楽が聴こえ、ジャズや行進曲も登場する。『モーツァルト・ア・ラ・ハイドン』(1977)にはモーツァルトの音楽の断片、ハイドンの『告別交響曲』風のしかけがある。『ピアノ4重奏曲』(1988)はマーラーが16歳のとき書いた未完の作品を大胆に補作したもの。第1楽章はマーラー、第2楽章ではクラスターや激しいグリッサンドが聴こえる。12音技法、セリーやクラスターなど現代音楽の語法に全面的に頼ることはない。一連の『合奏協奏曲』(第1番、1976-77)も、こうした手法によっている。多様な手法がごちゃ混ぜになった音楽が混沌とした現代そのものを表現している。影響を受けた作曲家としてマーラーとアメリカのチャールズ・アイヴズを挙げていた。マーラーはシュニトケが少年時代を過ごしたウィーンを舞台に活躍し、アイヴズもさまざまな音楽を引用しコラージュ、作曲した。
生計は映画音楽や劇音楽で立てていた。30年間で60本以上の映画音楽があるが、あくまでも生活のためだった。1年の半分、ときには10カ月も映画音楽を書く二重生活を続けたという。彼の「多様式主義」に、シーンが変わるごとに異なる音楽がつなぎ合わされる映画の影響を見る評論家もいる。
シュニトケの音楽の最大の理解者だった旧ソ連ラトヴィア出身のヴァイオリニスト、ギドン・クレーメルは「全体主義思想と自由な精神とのあいだの闘争を複雑に表現している」と評している。1992年4月、アムステルダム国立歌劇場の委嘱で初めてのオペラ作品『愚者との生活』が初演された。イエローフェーエフ原作・台本で、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチが音楽監督、ボリス・ポクロフスキーの演出。音楽はブルースまで取り入れ、レーニンを想起させる聖愚者が登場し、独裁者に蹂躙される市民が描かれるこのオペラは、共産主義体制下の旧ソ連社会のアレゴリーになっている。
旧ソ連が1989年に崩壊してからハンブルクへ移住したが、長年の過酷な生活が体を蝕んできていた。最初の脳卒中の発作に襲われたのが1985年で、その後もたびたび発作が続いた。1992年、第4回世界文化賞授賞式のためピアニストのイリーナ夫人とともに初来日したのも、無理を押しての旅だった。金春流の能を鑑賞し、「日本での驚きが維持されて、なんらかのよい結果が生まれることを望んでいる」と話していた。
1998年8月3日、63歳で死去。脳卒中の発作だった。モスクワ音楽院大ホールでしめやかにおこなわれた葬儀にはクレーメル、ヴィオラ奏者のユーリ・バシュメット、ロストロポーヴィチら旧ソ連を代表する音楽家たちが参列した。ロストロポーヴィチは「これ以上の損失はない」と早すぎる死を悼んだ。

江原和雄

略歴

  1934
11月24日、旧ソ連ヴォルガ川流域のドイツ人民族区エンゲルスで
生まれる
  1946-48 ウィーンで音楽を学ぶ
  1948 モスクワへ移り、合唱指揮法を学ぶ
  1953-58 モスクワ音楽院で作曲をゴルビエフ、管弦楽法をラーコフに師事する
  1961-72 モスクワ音楽院卒業後、音楽院で楽器法、スコア・リーディング、対立法、作曲法を教える
  1963 モスクワでルイジ・ノーノと出会い多大な影響を受ける
  1972-84 60本以上の映画音楽を作曲
  1974 交響曲第1番初演
  1977 コンチェルト・グロッソ、レニングラードで初演、後モスクワ、ウィルナで
演奏
  1985 最初の脳卒中の発作が起きる
  1989 9月ドイツへ移住。ハンブルク音楽大学作曲主任教授就任
  1992 「愚者との生活」がアムステルダムでベアトリクス女王出席の下、初演される。高松宮殿下記念世界文化賞・音楽部門受賞
  1998 8月3日、ハンブルクで死去
  主な作品 1957  ヴァイオリン協奏曲第1番
1958  オラトリオ「長崎」
1968  ヴァイオリン・ソナタ第2番
1969  交響曲第1番
1975  ショスタコーヴィチを偲ぶ前奏曲
1977  コンチェルト・グロッソ第1番、モーツァルト・ア・ラ・ハイドン
1979  交響曲第2番「聖フローリアン」
1983  身を慎み目を覚ましておれ(ファウスト・カンタータ)
1985  コンチェルト・グロッソ第3番
ヴィオラ協奏曲
合唱のための協奏曲
1988  合奏協奏曲第4番(交響曲第5番)
1991  コンチェルト・グロッソ第5番
1992  愚者との生活(オペラ)