繰り返し増殖する「水玉」や無限に広がる「網」が見える、動物や植物の話す声が聞こえるなど、子供の頃から幻覚を体験し、そのイメージを描き続け、その中に自分自身を同化させることで、自己を保ってきたという。半世紀にわたって現代アートの最前線を走り続けている。
10歳のとき描いた母親の肖像や花瓶と花のデッサンに、すでに水玉や網目が描かれている。松本市の女学校を卒業後、京都市立美術工芸学校で一年間、日本画を学び、地元やや東京で個展を開催するなど活動をしていたが、世界の美術界に挑戦したいと、1957年にアメリカに渡る。「命がけで、毎日、朝から晩まで絵を描いていました」と言うニューヨーク時代に、モノクロームの「無限の網」で一躍注目され、華々しく活動を始める。絵画、ハプニング、反戦デモからファッション・ショー、自作自演の映画「草間の自己消滅」など様々な形で「草間のラブ・フォーエバー」の世界を展開し、話題をさらった。
1973年に帰国して活動拠点を東京に移すが、日本ではスキャンダラスな報道が多く、すぐには受け入れられなかった。1993年の「ヴェネツィア・ビエンナーレ」に日本代表として参加し、一気に名声を高めた。その後は毎年のように日本も含め世界各地で個展が開催されている。小説や詩集も数多く発表。常に枠にはまらない新たな表現を追い求め、布製のソフト・スカルプチャー、鏡や電飾を用いた環境彫刻、あるいは「自分たちは死を選ぶことができなくて、死ぬまでに何千杯のコーヒーと何千のマカロニを食べなくてはいけない」という強大な恐れを証明した「フード・オブセッション」など、独創的な作品を次々と生み出す。「かぼちゃ」も愛するテーマの一つである。
近年では松本市美術館の「幻の華」など大型の野外彫刻も手掛け、2006年には香川県の直島に、中に入ることのできる新作「赤かぼちゃ」が設置された。強烈な個性が観る者を草間ワールドへ引き込む。今や作品も作者もカリスマ的といった評をよそに、「今まで闘ってきたけど、これから先が勝負、新しいアイディアで次々と絵を描いて、またそれを乗り越えて新しい世界へ行きたい」と、鋭い眼差しに創作意欲をみなぎらせ、「癒しとは、愛とは一体何であるかという求道のために芸術をやっている。100歳まで生きて自分の人生を形づくっていきたい」と語る。