マルセル・カルネ

Marcel Carné

プロフィール

  今なお世界中の映画関係者が史上No.1の作品に挙げる名作『天井桟敷の人々』(1944)の監督。数こそ少ないが、今でも上映される数々の名作を撮った巨匠である。
  1906年、パリ生まれ。念願の映画界入りを果たしたのは大女優、フランソワーズ・ロゼーとその夫、フランス映画界の大御所、ジャック・フェデー監督との出会いからだった。
  30歳で監督デビューして間もなく、ナチスがフランスへ侵攻。パリ占領時代に先輩監督たちが国外へ逃れる中で国に踏みとどまり、あふれんばかりの情念を燃やして制作に取り組んだ。『悪魔が夜来る』(1942)では中世に舞台を設定しながら、悪魔をナチス、愛しあう男女をフランスの良心に象徴させて人間性の尊厳を強く訴えた。ヴィシー政権の検問下という厳しい制約の中で、3時間6分の超大作『天井桟敷の人々』が生まれた。非占領地ニースの撮影所に戦時下とは思えぬ大がかりなセット、2千人のエキストラ。カルネ氏は「フランス人の心意気ですよ。パリ解放後に上映されたときの歓呼の声は忘れられない。」と語っている。
  戦後も『危険な曲り角』(1958)などの秀作を制作したが、ヌーベルヴァーグの波に押されて出番はなかった。最期まで新作の準備に取り組む意欲を見せていたが果たせず、1996年、パリで死去。

詳しく

  詩的リアリズム、フランスの艶、カルネの薫り……。フランス映画史の金字塔として不滅の輝きを放つ『天井桟敷の人々』。マルセル・カルネの作品には、フランスならではの詩情がただよい、その芳香はいつの時代にも我々の五感を刺激してやまない。

  映画を見まくる青年時代を送り、カルネの言葉に従うと第一の奇跡が起こる。ある晩餐会で、隣の席に大女優のフランソワーズ・ロゼーが座った。「夫に紹介するから会ってみなさい」。その夫がフランス映画界の大御所ジャック・フェデー監督で、その助監督を務めて映画界に入る。
  自作の『ノジャン 日曜日の楽園』がルネ・クレール監督の目に留まって第二の奇跡が起こる。クレールの『巴里の屋根の下』の助監督に。「フェデー監督からは透徹したリアリズム演出を、クレール監督からは甘く苦い人間描写を吸収した」
  30歳で本格的な監督第一作『ジェニーの家』(1936)が生まれた。パリで高級娼家を経営する中年女がフランソワーズ・ロゼー。彼女は年下の男に恋するが、自分の娘がこの男と恋仲になって身を引く。冷たく乾いたリアリズム的手法はフェデーの影響がみられた。この第一作に真っ先に「批評家賞」を贈ったのが日本で、カルネは「勇気づけられた」と語っていた。
  やがてナチスが台頭。ドイツ軍がフランスに侵攻する。戦前の巨匠たちが相次いで国外へ逃れるなか、カルネはフランスに踏みとどまった。パリが占領され、ヴィシー政権下の検閲が厳しくなるにつれ、逆にフランス人の魂を映像にたたきつける作業に没頭。彼はそれを「フランス人のエスプリ」と表現した。当時のフランスの代表的詩人、ジャック・プレヴェールの脚本を得て秀作を発表する。
  『霧の波止場』(1938)は、外人部隊の脱走兵(ジャン・ギャバン)がル・アーヴルで町の娘(ミシェル・モルガン)と恋に落ち、やがて死を迎える……。フランス映画伝統のペシミズムが色濃い作品だった。『北ホテル』(同年)は安宿に暮らす人たちの悲喜劇をエピソード風につづり、名女優アルレッティの「気分、気分って、私は気分だけの女かい」というセリフとともに名作となった。
  そして、詩的幻想に彩られた『悪魔が夜来る』(1942)は非占領地の南仏ニースのヴィクトリーヌ撮影所で撮られた。愛する男女が悪魔によって石にされ、心臓だけが死なずにピクピク動くラスト・シーンが印象的だった。後年、カルネが首をすくめて語っていた。「いや、ヒヤヒヤしたよ。悪魔がナチス、動く心臓がフランスの良心だからね。よく検閲にひっかからなかったものだ」。
  フランスは力で占領されたが、フランス人のエスプリは生きている。それを映像化する試みがフランス映画史上、空前絶後の大作『天井桟敷の人々』(1945)で頂点に達する。この作品がカルネの名を不朽のものとした。1840年代のパリの見せ物小屋が並ぶ歓楽街が舞台。第一部の「犯罪大通り」、5年後を舞台にした第二部「白い男」を通じて、女芸人ガランス(アルレッティ)とマイム役者バチスト(ジャン=ルイ・バロー)の愛を軸に、さまざまな人間模様をくり広げる。
  参加したエキストラは実に2000人。近在の農家が食糧を差し入れてくれたという。フランスのエスプリが発揮された作品で、戦後の公開によって世界中を感動させた。しかし、皮肉にもパリのシャイヨー宮での最初の試写会は不評で、新聞の映画評も冷たかったという。ところが、一般公開されるとたちまち反響を呼んだ。解放の喜びと重なって人々は映画館に殺到。その熱狂に新聞の映画評も書き直されたという。
  戦後も『愛人ジュリエット』(1950)、『嘆きのテレーズ』(1953)、『危険な曲がり角』(1958)などの秀作があるが、ヌーベルヴァーグの出現もあって戦中作品ほど評価されていない。カルネが「いま振り返って、私は絵に対する尽きぬ興味から、絵を描くように映像をつくってきた気がする」と10年前に語った言葉が強く印象に残る。
  モーパッサンの短編小説『蝿』の映画化に取り組んだが果たせず、1996年10月31日、パリ近郊の病院で死去。90歳だった。

小田孝治

略歴


1906
8月18日、パリに生まれる

1928 助監督になる。30年代の大監督達のもとで働く。ジャック・フェデー監督「LES NOUVEAUX MESSIEURS」(1928)、「外人部隊」(1933)、「ミモザ館」(1934)、「女だけの都」(1935)、ルネ・クレール監督「巴里祭」(1932)

1929-33 カメラ助手として働きながら“シネ・マガジン”の映画評論を書き、“エブド・フィルム”の編集もつとめる

1930
最初の監督作品「Nogent, Eldorado du dimanche」

1936 最初の長編映画「ジェニーの家」。この頃、詩人ジャック・ブレヴェールに出会う

1938 「霧の波止場」でヴェネツィア映画祭金獅子賞受賞

1942 「悪魔が夜来る」でフランス映画グランプリ受賞

1943 「天井桟敷の人々」大セザール賞受賞

1984 ヴェネツィア映画祭でマルセル・カルネ全作品に対して金獅子賞が授与される

1989 高松宮殿下記念世界文化賞、演劇・映像部門受賞

1996 10月31日、フランス、クラマールで逝去

主な作品と受賞 1936  「ジェニーの家」評論家賞(日本)
1937  「DROLE DE DRAME」フランス最優秀映画賞(日本)
1938  「霧の波止場」ルイ・デリュック賞 「北ホテル」
1939  「LE JOUR SE LEVE」評論家賞(キューバ)
1942  「悪魔が夜来る」フランス映画グランプリ
1943  「天井桟敷の人々」大セザール賞
1946  「夜の門」
1949  「港のマリー」
1951  「愛人ジュリエット」カンヌ映画祭音楽賞
1953  「嘆きのテレーズ」ベネツィア映画祭金獅子賞、最優秀外国映画賞(アメリカ)
1954  「われら巴里っ子」ヴェネツィア映画祭最優秀主演男優賞(ジャン・ギャバンに対して)、大衆賞グランプリ(ローラン・ルザッフルに対して)
1956  「遥かなる国から来た男」
1958  「危険な曲がり角」フランス・シネマ大賞、フランス映画祭最優秀
作品賞、その他国際賞5つを受賞
1960  「広場」
1965  「マンハッタンの哀愁」ベネツィア映画祭最優秀女優賞(アニー・ジラルドに対して)
1971  「LES ASSASSSING DE L'ORDRE」評論家賞(モスクワ)、モスク
ワ映画祭銀賞、ベネツィア映画祭で特別賞、その他東欧諸国で4つのグランプリ受賞
「LA MERVEILLEUSE VISITE」ファンタスティック映画祭(ハリウッド)、評論家賞(フランス)
1976  「LA BIBLE」カンヌ映画祭にて全キリスト教会審査員賞
1993  「Mouch」