マックス・ビル

Max Bill

プロフィール

  マックス・ビルの作品は緻密な数学的計算にもとづいていながらも、それを気づかせない、いわば“数学・幾何学の詩”とも言うべきものが、その造形をつつみこんでいる。自然の影響を排して数学的真実に立脚した美を追求する“コンクリート・アート(具体芸術)”を提唱し、実践していった。
  1908年、スイスのヴィンタートゥールに生まれる。チューリッヒ美術工芸学校からデッサウのバウハウスに進み、グロピウス、クレー、カンディンスキーらに学ぶ。ここで学んだことがビルの芸術観に決定的な影響を及ぼす。ビルの芸術観の中心にあるのは、「機能」の概念である。具体的には建築、絵画、彫刻、デザイン、それぞれの領域の機能を発揮させながら、最終的にはそれを統合し調和させることである。この理論がビルの作品には見事に結実しており、ビル自身彫刻家であり、画家、建築家、デザイナーとしても活躍、優れた評論家でもあった。
  ミラノ・トリエンナーレのスイス館(1951)の設計はコンクリート・アートの代表。制作の根拠地であったチューリッヒのペリカン通りには、建築的な規模の「パヴィリオン彫刻」が市民に親しまれている。箱根彫刻の森美術館にもその大作がある。1994年死去。

詳しく

  マックス・ビルの造形作品は緻密な数学的計算にもとづいていながらも、それを気づかせない完成美を示している。いわば「数学・幾何学の詩」ともいうべきものが、その造形を包みこんでいる。

  ドイツ、デッサウのバウハウスで学んだことが、ビルの芸術観に決定的な影響をおよぼした。今世紀美術史上に名高いドイツの総合美術学校兼研究所であるバウハウスは1925年、政治的圧迫のためワイマールからデッサウに移転したが、ビルは1927年から2年間、ヴァルター・グロピウスが設計したデッサウ校舎で学んでいる。ビルの芸術観の中心にあるのは「機能」の概念であり、後には「あらゆる視覚芸術の主目的は幾何学である。地上であれ空間であれ、さまざまな要素の相互関係である」との信条にまで発展した。具体的には建築、絵画、彫刻、デザインそれぞれの領域の機能を発揮させながら、最終的にはそれらを統合し調和させることだった。この理論がビルの全生涯を通じて、その作品のなかにみごとに結実している。ビル自身、彫刻家であると同時に画家、建築家、デザイナーとしても活躍し、また理論家、評論家としても優れた実績を残している。
  1908年、スイスのヴィンタートゥールに生まれた。チューリッヒ美術工芸学校からデッサウのバウハウスに進み、グロピウス、ラスロー・モホリ=ナギ、ヨーゼフ・アルバースらの「総合教育」の薫陶を受ける一方、クレー、カンディンスキーらに学び、またオランダのデ・スティル運動の創設者のひとりであるテオ・ファン・ドゥースブルクに強く影響された。1929年、チューリッヒに戻って活動をはじめ、グラフィック・デザイナーとして認められた。1932年、パリの「アブストラクシオン・クレアシオン(抽象・創造)」運動にも参加する。ドゥースブルクの死後、その後を継ぎ、チューリッヒを根拠地に、自然の影響を排し数学的真実に立脚した美を追求する「コンクリート・アート(具体芸術)」を提唱し、実践していった。ミラノ・トリエンナーレで手がけたスイス館の設計は、その代表例である。
  1951年、サンパウロ・ビエンナーレで大賞を受賞したビルは1953年、『無名政治犯のためのモニュメント』のプロジェクトのコンペに参加した。彫刻と建築との結合を意図していたが、未完に終わった。同年、ドイツのウルムにバウハウス再興のための造形大学を共同で創設、自ら校舎を設計し初代学長も務めた。ウルムのキャンパスでは彫刻、絵画、デザインにわたるアイディアとフォルムとがみごとに統合された。
  「表現の客観性のためにシステマティックな過程を探り出す」という理念は第二次大戦後にスイスから世界へ向けて発したメッセージであり、1960年以降の国際美術界で先駆的役割を果たし、ミニマル・アートやプライマリー・ストラクチャーの出現を予告するものだった。
  未完の『無名政治犯のためのモニュメント』のプロジェクトで示された構想は、なかに住むことさえできそうな『パヴィリオン彫刻』(1969-75)に発展した。箱根・彫刻の森美術館の大作は、明快で簡潔、凝集性をもつ三次元空間を目指すコンクリート・アートの理念の具現化といっていい。制作の根拠地だったチューリッヒの中心街のペリカン通りの一画では、建築的な規模の『パヴィリオン彫刻』が市民に親しまれている。
  他のテーマでは、単一表面をもつ彫刻、柱状彫刻、球状彫刻などがある。1930年代にさかのぼる単一表面をもつ彫刻は、「メビウスの輪」を発展させたもので、金色に輝くフォルムは静的かつダイナミックである。
  1990年、銀座の画廊で、小規模ながらビルの本格的な彫刻と絵画の個展が開催された。作家自身は来日できず、画廊から提示された図面をもとに、展示作品が自選された。スペースに対する作品の大きさ、彫刻と絵画のバランス、色彩の関係など、さまざまな要素が相互に作用し合い、ビルが長年にわたって探求してきた、分野を統合する空間意識が結実していた。

松村寿雄

 

1994年12月9日逝去

略歴


1908
12月22日、スイス、ウィンタートゥールに生まれる

1924-27 チューリッヒの美術工芸学校で銀細工を学ぶ

1927-29 ドイツ、デッサウのバウハウスで学ぶ

1929
チューリッヒに定住し、建築家、画家、グラフィックアーティストとして仕事を始める

1933 ジャン・アルプに誘われ、パリの「アブストラクシオン・クレアシオン」グループ展に加わる

1935 最初の「エンドレス・リボン」彫刻を作る

1944 国際展・具体芸術展(バーゼル)を組織

1951 サンパウロ・ビエンナーレ彫刻部門で国際賞。ミラノ・トリエンナーレ、スイス館大賞

1951-56 ウルムの造形大学の共同設立者兼初代校長となり、同校の建築にあたる一方、建築、プロダクト、デザイン学部を担当

1956-57 回顧展がウルム、ミュンヘン、デュイスブルク、ハーゲンを巡回

1967-71 ハンブルグ国立美術院の環境デザイン部教授

1970 大阪万国博覧会のため来日

1974 ロサンゼルスで個展

1976 ハンブルク、シュトゥットガルト、ミラノで回顧展

1983-86  フランクフルト市ドイツ銀行本店前に作品「連続」を設置

1990 東京、現代彫刻センターで個展

1993 高松宮殿下記念世界文化賞・彫刻部門受賞

1994 12月9日、ベルリンで逝去

主な作品
(モニュメント)
1966-67 「風の柱」(モントリオール近代美術館)
1969   「パヴィリオン彫刻」(箱根・彫刻の森美術館)
1979-82 「アルベルト・アインシュタイン・モニュメント」
               (ウルム市、ドイツ)
1985-89 「カルチェ・パヴィリオン」(パリ近郊、フランス)
1987-89 「3色柱の群れ」(シュトゥットゥガルト市近郊)
               「花崗岩の座」(シュトゥットゥガルト市近郊)